卓話


イニシエーションスピーチ

2006年8月9日(水)の例会の卓話です。

小林 哲也君
田尻 孝君 

第4112回例会

東京のホテル事情
ーホテル業界の変遷と現状について

(株)帝国ホテル 代表取締役社長
小林 哲也君 

 最近よくマスコミで「東京ホテル戦争」や「ホテルの2007年問題」と言われています。2000年から2007年頃にかけて、特に東京都心部へ新規高級ホテルが相次いで開業することから、ホテル間の競争が激しくなっている、という内容ですが、本日は「東京のホテル事情」をテーマに、こうした動きに先立つ日本のホテル業界の変遷と現状についてお話したいと思います。

1.初期の頃
わが国に西洋式の宿泊施設であるホテルが誕生したのは、今から120〜130年前、日本が開国から間もない頃でした。当初は欧米の賓客などの接待用施設で、帝国ホテルもその1つとして1890年、今から116年前に開業しました。すぐ隣(現在の大和生命ビル敷地内)には「鹿鳴館」がありました。鹿鳴館の建設、帝国ホテルの設立とも、当時の外務卿、井上馨の提唱によるもので、「帝都東京に諸外国からの賓客を迎えるのにふさわしい宿泊施設」という、言わば国策の一環ということもあり、当時の最大の出資者は「宮内省」でした。以前アカデミー賞候補になり話題となった映画「ラストサムライ」の時代から約10年後のことです。 

2.戦後
戦後に入り業界全体が発展する中で、何度か新規ホテルの建設が集中する時期がありました。業界では「第○次ホテル建設ブーム」などとも呼ばれています。
 「第一次」は1960年代初頭の、東京オリンピック開催を契機とした訪日外国人の増加に対応したもので、都心に400〜500室規模のホテルが建設されました。
「第二次」は1960年代後半〜70年代半ば頃までで、「大阪万博」「札幌オリンピック」「沖縄海洋博」など、大型の国家イベントが次々に開催されました。この頃には地方の中核都市を含め大規模なホテルが建設されました。
「第三次」は1980年代の安定経済成長期の中で、ホテルの利用客層が拡大しました。 1978年の成田空港開港などもあり、大都市で高級ホテル建設が進みました。
「第四次」は1990年代のバブル崩壊後ですが、それまでに計画された不動産開発プロジェクトの一環としてのホテル建設が進みました。

3.現在
 5次ホテル建設ブーム
 そして、2000年代に入って以降を「第五次」と呼ぶことができるでしょう。ご承知の通り、次々と外資系高級ブランドホテルならびに国内系のホテルの開業が続いており、これらの客室数を合計すると2002年から2008年の予定も入れて約5000室にのぼります。
こうした中、新規勢力に対抗すべく、既存ホテルも次々と競争力維持に向けた改修を行っており、益々競争は激しくなっています。 

 ◆‥埒瓦涼楼莖発に伴う新たな需要
一方では、こうして都心で新規ホテルを含めた地域開発が進むと同時に新たな需要が生まれています。
新しいビルが建設され、ショップや企業のオフィスなどがテナントとして入ることで話題性も高まり、そこを訪れる人、そこで働く人の数が増え、その方々がホテルを利用してくださるわけです。又、居住棟も多く出来、居住者数も大きく増加しています。実際に、都内主要ホテル15社の平均稼働率は、新規ホテル開業が相次いだ2003年から2005年にかけて74.2%から77.2%と約3%伸びています。
「ビジットジャパンキャンペーン」
さらに、政府と東京都の「ビジットジャパンキャンペーン」にも期待したいと思います。日本を訪れる外国人旅行客は2005年度で約700万人弱。前年から14%増えたそうですが、反対に日本人の海外旅行者数は約2.5倍の1700万人と、アンバランスな状態です。
最新の統計によると、外国人旅行者が最も多いのはフランスで、年間約8千万人だそうです。以下スペイン、アメリカ、イタリア、中国と続き、日本は第33位。1位のフランスの10分の1以下にすぎません。
このキャンペーンでは、訪日外国人旅行者数を2010年に1000万人、500万人だった2002年に対して倍増する水準まで拡大することが目標だそうです。ホテル業界への追い風として、大いに期待したいと思います。

以上、ホテル業界の変遷と現状をお話して参りましたが、こうした「競争激化」と「需要増」の両面をもつ環境の中で、ホテル業界内の各社が互いに切磋琢磨していくことで、全体の商品やサービスのレベルアップにつながり、結果的にはお客様の利益に還元できると思っております。どうぞ今後とも暖かいご支援ご厚誼のほどお願い申し上げます。

最近の医療と親子関係 −生体肝移植をとおして−
日本医科大学
医学部長 
外科主任教授
田尻 孝君

 最近起こった大きな事件として秋田県能代市の児童連続殺害が挙げられます。実の母親が我が子を自らの手で死に至らしめた悲惨で信じがたい事件です。

 しかしこれは特殊な例であり、多くの親は子供が病気になった時、あるいは病気をもって産まれてきた時にはわが身に変えてでも子供を守ろうとします。これが本来の親子関係であり、こうした気持こそが生体肝移植医療を支えております。

 本邦での生体肝移植は1989年に初めて行われました。とくに脳死が人間の死と認められていなかった日本において急速に普及致しました。そして1997年10月に「臓器移植に関する法律」が施行され、脳死からの移植が可能となりましたが,その後の9年間でも31例に対して移植が行われたに過ぎず、その後も生体肝移植の件数が増え、現在全国で年間300例以上、総数でも3000例を超えております。

 当初、生体肝移植は主に胆道閉鎖症の子供に対する根治的治療法としてとり入れられました。胆道閉鎖症は肝臓が年とともに肝硬変へと進行し、その中で成人できるのは1割程度の子供しかいないという極めて予後の悪い病気です。本邦において肝移植が始まる前は、海外に肝臓を求めた患者もおりましたが、ほとんどの患児たちは移植を受けられずに亡くなっていきました。

 しかしこの生体肝移植が導入されたことにより、胆道閉鎖症は治り得る病気になりました。そしてそのドナーには両親あるいは祖父母がなります。しかも20年間に約1000例行われていますが、ドナーになることを拒否した親はいないと聞いております。自分の子供や孫が、肝臓移植を受なければ生きていけない状態の時、ほとんどの親達は自分の肝臓を、と思います。それが親の気持ちであり、当然の親子関係ではないかと思います。

 現在、生体肝移植は成人に対しても行われております。年間約300例の生体肝移植のうち3分の2は成人間です。当初保険適応は原発性胆汁性肝硬変、硬化性胆管炎、あるいは劇症肝炎などに限定されていましたが、2005年からウイルス性肝硬変や、一定の基準内であれば肝細胞癌に対しても適応が拡げられました。このような法律の改正が生体肝移植医療をさらに推進させる結果となりました。

 ドナーになりうる範囲も、子供への移植が中心であった頃は3親等以内の身内に限定されていましたが、現在は血縁のある6親等、血縁のない3親等以内までと拡げられております。これは成人症例の場合ドナー候補を得にくいという事を意味しております。すなわち成人の場合は年齢、血液型、取り出す肝臓の容量などの制約によりドナー候補は減り、社会的、精神的な理由からさらに減ります。特に子供から親へという親子間の生体肝移植は社会的、経済的、人道的にも受け入れられ難く、たとえ肝移植が必要とされても、実際に移植手術まで行われるのは10%程度でしかありません。もし自分が移植を受けなければ助かる道はないと宣告されたとしても、自分の子供の体に傷をつけ、肝臓をもらってまでも生き延びる道を選ぶ親は少ないのです。

 また、心から愛する人のドナーになり、その人の為にと考える人がいる反面、ドナーになる事を躊躇する人もいるはずです。自分の体にメスが入る事への恐怖感もあるでしょうが、それ以上に世間体、すなわち、ドナーとして適合したにもかかわらず肝臓を提供しなかったと後ろ指を差されることが怖くてしぶしぶと承諾する人も中にはいるでしょう。その本人の心の葛藤は量り知れません。

 提供者の善意によってのみ成り立っている生体肝移植は、我々日本人にとって脳死の問題も含め、大きな課題の1つであるといえます。これからの移植医療は脳死肝移植と生体肝移植が程よい比率で行われていくことが大切であると思います。本邦において脳死肝移植を推進するためにもドナーカードの普及が重要ですし、ひとりひとりの死に対する認識の改革が必要であるのではないかと思います。