卓話


会員増強および拡大月間例会
現代に生きる渋沢栄一

2008年8月6日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

渋沢栄一記念財団
理事長 渋沢雅英氏

 渋沢栄一は不思議な人で,死後76年の長い年月が経ち,本来なら.既に歴史上の人物になっているはずなのに,いまだに、その人生や業績が現代的な関心をよんでいます。

新聞やテレビなどのメディアにも絶え間なく登場していますし,アメリカの大学では、渋沢栄一の名を冠した講座が設置され,中国でも武漢の大学で「渋沢研究センター」が発足しました。慶応大学,東京大学,関西大学などでは,次々と記念講演が開講され,中国や日本で,研究者による栄一研究の出版も続いています。

明治の日本が輩出した,多くの優れた指導者のなかで,特に渋沢栄一への関心が,息長く持続している理由は,一つには,その活動が企業の設立・経営の他,社会福祉,国際関係,教育,文化など国民生活の全面に広がっていたこと。もう一つは,当時,栄一が取り組んだ課題の中に,現代と密接に関係する部分が多かったことが挙げられます。

確かに栄一は守備範囲の非常に広い人で,単一のカテゴリーでは収まりきれない広範囲の業績を残しました。

私たちの財団では,5年前から4億円近い予算と,多くの人手を投入して,渋沢栄一の人生と,その活動を網羅したデータベースの構築を進めてきました。その結果,最近では,明治以来何十年にわたって,栄一が毎日何をしたか,どのような会合に出て誰と会い、どんな意見を述べたかの情報を,瞬時にパソコンの画面に表示できるようになりました。

幕末以来91年に及ぶ栄一の長い生涯は,日本近代史と表裏をなしている部分が多く,このデータベースは,多方面から注目と期待が寄せられています。数年後には,「デジタル伝記資料」,「社史索引データ」,「企業史資料ディレクトリー」,「実業史錦絵データベース」など、多彩な資料をネット上に一般公開して,多くの方々の知的ニーズに応えたいと考えております。

一方,こうした努力を通して,時として見当違いの評価を受けたり,重要な点を見落としてしまったりしている,渋沢栄一の等身大の実像に迫っていきたいと願っております。

そこで今日は,資料整備の作業を通して,ようやく見え始めた栄一のプロフィールのいくつかをご紹介したいと思います。

第一に取り上げたいのは,日本近代化の先駆者としてのイメージです。

渋沢栄一は,資本主義の父などと呼ばれ,経済界での活躍が大きく取りあげられ勝ちですが,栄一の使命感のベースには,当時の日本が抱えていた、多くのニーズへの強い危機感があり,そのすべてに応えようという意欲がなによりも優先していたと思います。

そうした大きな使命感を形成する契機となったのは,幕末の頃,フランスに1年余り滞在し,近代国家の在り方とその機能を親しく観察する機会を得たこと。さらに,それに具体的な形を与えるようになったのは,明治2年,新政府にスカウトされ,民部省改正掛という部署で過ごした数年間の実務体験だったように思われます。

改正掛というのは,近代化の司令塔となるべく,特命によって設置された部局であり,私どものデータベースによれば,掛長として栄一が関わった案件は,度量衡の改正,全国の測量,郵便制度の創設,鉄道の敷設、関税率の制定など,35項目に上っており,近代国家形成の基盤となる事案の大半を網羅していました。

廃藩置県に伴う藩札の整理については,時価による交換を提案し,そのために必要な5千万円の紙幣の印刷をドイツに発注したりしています。

代々,世襲によって収入が保証された武士階級の生活支援は,まかり間違えば,新政府を転覆させかねない困難な問題でした。強い危機感を持った栄一は,何日も続けて,ほとんど徹夜の状態で数千枚に及ぶ緊急対策要綱を作り上げ提出したということです。

30歳前の若さとはいえ,そのエネルギーと能力は驚嘆すべきものとして,政府内部でも広く認められ,伊藤博文,井上馨,大隈重信などの指導者との間に,親密な友情と信頼を作ることができました。

次に,栄一の活動を伝える膨大な資料の中で,特に目を引くのは,抜群の説得力です。

新政府での4年余りの奮闘の後,明治7年,栄一は政府を退官し,発足したばかりの西欧型民間金融機関,第一国立銀行の総監役に就任します。

第一国立銀行は,設立直後にパートナーの小野組が破綻し危機的な状況に陥りますが,栄一の必死の説得により,最終的には2万円弱の損失で,なんとか切り抜けることができました。

日本最初の製造会社王子製紙は,紙幣や国債,新聞雑誌等への需要を見込んで,明治7年,栄一自身の発意により,資本金50万円で創立されました。ところが技術的欠陥から,いくら努力しても商品になるような紙ができず,翌明治8年には4万円の損失を計上し、その後も毎年欠損が続きます。

数年後に,大川平三郎という人が渡米し,技術を習得して帰国,ようやく利益が出るまでに10年がかかりました。その間の出資者に対する説明は,さすがの栄一も進退窮まったといわれています。

しかし,株主たちは,栄一の誠実さと,目的意識の正しさを信じ,長期の無配に耐えたうえ,損失補填の為の増資にも応じ続け,その結果,王子製紙は日本を代表する会社に成長することになりました。

三つ目は,官尊民卑の打破など,社会変革の必要への認識と,それを実現しようとするコミットメントの大きさでした。

民間企業設立の当初から,栄一は企業人に独立の精神を持たせ,共通の問題には共同で取り組み,必要に応じて集団で政府に働きかけ,経営環境の改善を進めるような仕組みを作ることを願っていました。

当時の経営者は江戸時代から引き継いだ階級差別の意識に染まっていました。栄一の提案に対しても,はかばかしい反応を示しませんでした。「択善会」という銀行経営者のグループ結成に関するデータでは,連日連夜の会合の中で,ほとんど無限と思われる時間とエネルギーを費やして,銀行家仲間に対して,親切丁寧にマクロ的な経済情勢や,海外との競争の実情などを説明し,国家の利益と自分たちの利益を共同で推進する枠組みの必要性について,繰り返し説得を重ねる,印象的な栄一の姿が見られます。

その結果が,やがて銀行協会,商工会議所,株式取引所等という業界ネットワークの立ち上げとなりました。並行して企業人自身の意識も変わり,エリート企業人という新しい集団が育ち始めました。

「財界」という造語も生まれました。政府といえども,財界の意見を無視して政策を強行することはできなくなりました。

ほんの少し前まで,「官」によって全面的に支配されてきた日本の社会に,全く新しいパワーセンターの誕生を告げるものでした。

次に申しあげたいことは,企業の設立・運営は,栄一にとって,近代日本育成のための手段であるとイメージされていたように見えることです。

島田昌和氏(文京学院大学教授)の最近の包括的研究によると,栄一は470の会社の設立や経営に参画したとされています。

新しく事業を興そうとする人に,栄一は銀行からのローンの組み方や正確な財務諸表の作り方などを親切丁寧に指導し,しばしば発起人名簿に名を連ね,自らも資金の一部を投資しました。会社が無事設立され,経営が順調に進むのを見定めると、多くの場合,自分の持ち株を売却し,その資金を新しい企業の支援に充当していたことが,栄一並びに家族の資産運用のデータから,はっきりと見てとれます。企業を自らのものにするという発想はたいへん希薄で,もっと大きな目的,即ち,国の近代化の推進者あるいは支援者の役割に徹していたように思われます。

今まで四つの視点でお話ししましたが,栄一に見られる,もう一つの特質は独特の粘り強さです。国や社会のために必要と考えた事業については,30年,40年の時間を費やし,時として気弱になる当事者たちを励まし,最後には実現させてしまいます。

データに見られる代表的なものに,東京養育院の運営,一橋大学を始めとする多数の教育機関の育成強化,異色なものに,徳川慶喜公の復権とその伝記の編纂が挙げられます。

東京養育院は,明治9年,徳川幕府が残した貧民救済の仕組みを一部継承して,東京府の貧困救済事業の根幹を担う事業となりました。栄一は,明治9年,36歳の時から,昭和6年11月に亡くなるまで,60年近く現職の院長として在籍し,毎月一回は必ず分院を訪れ,ホームレスや障害児たちとの対話に努め,積極的にその運営に関わり続けました。

一橋大学は,明治9年に米国大使森有礼の発意で設立された「商法講習所」を母体として発足し,支援に当たった商工会議所との関連で,栄一が関与することになりました。

当時は,商人に教育は不要という偏見が支配的で,授業内容の拡充や大学への昇格には信じられないほどの困難が伴いました。

栄一は,40年以上にわたって,文部省はじめ各方面に説得を重ね,明治35年,東京高等商業学校となり,やがて,大正9年,大学昇格に成功。現在の一橋大学が成立しました。

 徳川慶喜公の復権とその伝記の編纂は,明治19年,栄一が単独に思い立ち、33年の継続的な努力の結果,実現にこぎ着けた大型プロジェクトでした。

幕末の決定的な局面で,大政奉還に踏み切り,時代の変遷を決定づけた慶喜の貢献を認めようとせず,蟄居同然のまま放置している明治政府の不公正さを強く意識した栄一は,伊藤博文はじめ政府要路へ粘り強い根回しを続け,15年の紆余曲折を経て,明治35年,慶喜は晴れて復権し,公爵の爵位を与えられました。そして,同じ年の同じ日に,西南戦争を主導した西郷隆盛も,同じく華族となり,侯爵の位を遺贈されました。今にして思えば,この二人の復権なしには,明治政府の歴史的正当性を確立できなかったと言えるかもしれません。

徳川慶喜公の身分的な復権と並行して,栄一は慶喜の包括的な伝記の編纂と刊行という学問的な事業を展開します。

幕府の崩壊に至る混乱と対立のなかで,慶喜が果たした役割を正確に記録しようという意図によるもので,兜町の自宅に編纂所を設け,東京帝国大学の歴史学者萩野由之氏の統括の下で作業が進められました。大正9年,後に幕末史の白眉として高く評価される「徳川慶喜公伝」全8巻が出版されました。

この文化的事業に,栄一は33年の間,心血を注ぎ,これに要する数万円の費用のすべてを自ら支弁したことは特記に値する業績と思います。因に,慶喜自身による多くの回想や,編集者との活発な質疑応答を含めて,伝記資料の第27巻ならびに47巻に,265ページに及ぶ詳細な記録が残されています。

昭和5年,90歳になった栄一は,昭和天皇の特別なお招きを受け,ご陪食と称して,天皇と差し向かいで昼食を共にする機会を与えられました。

栄一自身が孫の渋沢敬三に語ったところによれば、問われるままに長い人生を振り返り,特に慶応3年にフランスで見た,ナポレオン3世の姿や,その後の失脚についてご説明したということです。

天皇制の存続が必ずしも保証されてはいないことを示唆し,やんわりとご忠告申しあげたというのが,敬三の印象だったようです。

最後に,晩年の栄一の,人間としての完成度について,お話しします。といっても,私には大きすぎる課題でありますので,跡取りとして栄一の側近で過ごすことの多かった父,渋沢敬三の言葉を借りて,お話しします。

85歳を越える頃から,栄一には独特の風格が備わってきたと敬三は言っております。

栄一は70歳のころは,まだ多量のエネルギーを残していて,当時学生だった栄一は父を連れて食事に行き,穴子の天ぷらを平らげたり血の出るようなステーキをほおばったりしていました。

表面的には,温厚で,いつも笑顔を浮かべていましたが,人に注意したり何かを頼んだりするときには,自分の意図を相手に伝えずにはおかないという強い意思がひしひしと迫ってくるのを感じたということです。
ところが,父が3年余りの海外勤務を終えて、大正末期に帰国した時は,そうした圧力が,いつの間にか消えてしまったような気がしたと言っています。
栄一から頼まれなくても,こちらから察して,それをしなければならないような気持ちに,無理なく自然にさせられてしまう。それは極めて自然ににじみ出るようで,栄一の周囲には,何の摩擦も苛立ちもなく,いつの間にか物事が進行していくように見えたということです。

「透き通った感じと言えましょうか。祖父から発散されていたグレアーといおうか,世間的といおうか。そういうものが消え失せて,かえって本当の人間という感じが深く起こってきました」と敬三は書き残しています。

こうした完成度を備えた人物が,最後まで明晰さを失わずに,財界世話業ともいうべき役割を果たし続けたということは,当時の経済界は勿論,社会一般にとっても歓迎すべきことだったろうと思います。

そして,そのような在り方が,死後76年を経た今日に至るまで,栄一が不思議な人気を持ち続ける背景の一つになっているのではないかと思います。