卓話


文明の黎明ー万葉集とホメロス  

2008年6月4日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

(財)新国立劇場運営財団 理事長
遠山敦子氏

1.今どうして万葉集か 今年は源氏物語が書かれてから千年といわれております。源氏物語が日本の文化的資産であることは疑いもありませんが,その300年から400年以上も前から,日本にはたくさんの歌が詠まれていて,それを大伴家持が万葉集に編纂したのが今から約1250年前です。

 今年の5月に,奈良の飛鳥にある万葉文化会館が第1回NARA万葉世界賞を授与しました。受賞者はブラジルのサンパウロ大学教授を勤めたジュニ・ワキサカ氏という,81歳の女性でした。わたしは,万葉文化会館長の中西進氏から依頼を受けドナルド・キーン氏と共に世界賞の審査員になりました。

 授賞式では,ワキサカ氏は,大伴坂郎女の歌を引用しながら,実に見事な分析と,万葉集への思いを吐露されました。私は,その講演を聞きながら,第1回の授賞者にふさわしい内容だと思いました。

 私も審査員を依頼されるまでは,一般的な読者でしかなかったのですが,審査員としての良心を働かせて,万葉集を学び直してみましたところ,その奥深さとさまざまな魅力にあらためて興味を覚えたのです。

2.万葉集の特色と魅力
 万葉集の第1巻最初の歌は,雄略天皇の「籠もよ み籠もち ふくしもよ みふくし持ち この岡に 菜摘ます児 …」という有名な歌です。雄略天皇の即位は456年です。そして最も新しい歌は,759年に大伴家持が詠んだ歌です。つまり約350年の長い年月の間に詠まれた歌を集大成したのが万葉集です。

 万葉集は全体で20巻あり,歌の数は,4516首あります。歌の種類は,現在の和歌の形式のものだけではなく,長歌,反歌,旋頭歌,仏足石歌(57555+7の形式),連歌など多様です。各巻の冒頭には,天皇や宮廷人の歌が多いのですが,勅撰和歌集ではなく,天皇から東歌を歌った百姓や防人など,多様な人々の歌が選ばれています。作者未詳の歌が半分以上もあり,歌の作者にこだわるのではなく優れた歌ならば選んだ歌集であるといえます。

 万葉集は,自然を歌ったもの,恋の歌,人の死を悼む挽歌,その他雑歌の4つに分けられていますが,いずれも,今の時代にも心をうつような作品が多く,万葉集は,今も生きているといってよいと思います。

 その魅力はなにか。幾つかの角度から述べてみたいと思います。
まず,やまと言葉の美しさにしびれます。
 『いわばしる 垂水の上の早蕨の 萌えいずる春に なりにけるかも』
 『たまきはる 宇智の大野に馬なめて 朝踏ますらむ その草深野』

 言葉の美しさだけではなく,リズムの美しさがあります。五七調という日本人の感性に合ったリズムを創りだしたのが万葉集です。

 次に,恋愛歌のおもしろさです。

 情熱的で率直な気持ちが歌われています。

 狭野弟上娘女が,夫が流刑になって旅に出るときに『君がゆく 道の長手を繰りたたね 焼きほろぼさむ 天の火もがも』と詠む歌は(貴方が行く先の道を折り畳んで燃やしてしまうような天の火がないだろうか)という,情熱的な歌です。

 額田王が詠む『君待つと あが恋居れば 我が屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く』はとても静かな歌ですが,感情が研ぎ澄まされています。(想い人が来てくれるかどうかと待っていると,その人ではなく,秋の風が吹いて,すだれが動いただけだ)歌に込められている情感には心打たれるものがあります。

 三つ目は,自然をおおらかに詠う魅力です。

 私と万葉集との出会いは小学2年生の頃の百人一首が最初でした。私は,『田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ』の札をとるのが得意でしたが,後に,万葉集では『田子の浦ゆ 打ち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に 雪ぞ降りける』という,極めて明解な,歌い切った歌であることを知りました。

 その後,反歌の前にある長歌,『天地の分かれしときゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布二の高嶺を/天の原ふりさけみれば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光りも見えず…(略)/白雲もい行きはばかり 時じくそ 雪は降りける/語り継ぎ 言い継ぎゆかむ ふじの高嶺は』は,悠久の昔から富士の山は厳然として存在するという,時間の永遠を歌っています。対して,反歌は空間の美を称えているわけです。

 男女が互いに交わし合った歌もいくつかあります。こ存じの額田王と大海皇子の間の歌は最も有名ですが,天武天皇と藤原夫人が交わし合った,おもしろい歌があります。

 『わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に 降らまくは後』天武天皇、(わが里に大雪が降ったよ。貴方がいる大原の古るぼけた里には,もっと後に降るのでしょうね)

 『わが岡のおかみにいひて 降らしめし 雪のくだけしそこに散りけむ』藤原夫人、(私が神様に頼んで,雪を降らしてもらいました。そのごく一部が,そちらに降っただけですよ)実は二人のいる場所はごく近くだったのです。

 あの古代に,このような親愛の情を交わし合って,知的に話し合う夫婦があったことに驚かされます。

 さて、万葉集の意義について私が最も注目したい点は,まだやまと言葉のための文字がないころに詠われ,それが口承で伝えられたことです。後に万葉集に採録した時には漢字の音と訓を使いわけて見事に記録されました。

 このように,万葉集を読んで気づいたことは,文明の黎明期には文字より前に歌があったということです。実際,文字を持たない民族は多くありますが,歌を持たない民族はありません。人類にとっては,文字より歌が普遍性をもったといえると思います。この例を,世界の二つの文明で見てみたいと思います。

3.世界における文明の黎明期と歌や詩
 ギリシャ文明の最初の記録として今日残っているのは,ホメロスの叙事詩です。この詩の物語は古代ギリシャの紀元前14世紀から12世紀にかけて,ミュケナイ時代に溯ることができます。その頃英雄時代でトロイア戦争などがおきました。

 その後,楽人(歌い手)が,強靭な記憶力で,トロイア戦争の物語りを歌い伝えるようになりました。

 紀元前8世紀にホメロスが出現します。叙事詩が歌い物から語り物として定着します。しかしホメロス時代には文字はなく,その時代の記録はありません。

 私たちは今,「イリアス」「オデッセイア」を文字で読めます。では,それらがいつ文字化されたか,確かなことはわかりませんが,アテナイの僭主ペイシストラトスが,それまで,ばらばらに伝えられていたホメロスの叙事詩をパピルスに書き取らせたのが,紀元前6世紀だといわれています。

 そのアテナイ版が広く流布して,アテナイが文明の中心になりました。その後,ギリシャの三大悲劇詩人が出,ヘロドトスも出て,ソクラテス,プラトンなどの哲学者やデモクリトスなどの自然科学者も出て,ギリシャ文明が発祥します。

 イリアス・オデッセイアの中心はトロイ戦争の話ですが,それは膨大な叙事詩の一部なのです。トロイの遺跡は今のトルコにあります。

 トルコは西洋文明と東洋文明がいり混じった独特の魅力をもつ国です。かつてオスマン帝国の宗主国であった場所です。トルコには,紀元前19世紀から12世紀まで栄えたヒッタイト文明がありますし,その後もビザンチン文明があり,オスマン帝国文明が栄えました。

 アナトリア半島の東方ではオグス族がイスラーム文明の起こりの頃に,やはり英雄たちの叙事詩をもっていました。それが伝えられて,後に,15世紀ごろになって,やっと文字化された「デデ・コルクト物語」のようなものもあります。

 このように,ギリシャ時代の大叙事詩がギリシャ・ローマ文明につながり,トルコアナトリアの叙事詩がイスラーム文明につながったということです。

 このようなことからも,詠むことによって文明の黎明が始まるといえると思います。

4.文明の伝播
 ルネサンス以降,ヨーロッパ文明が世界を席巻しますが,それが可能であったのは,実はギリシャ・ローマ文明が滅びようとした頃に書物がアラビア語に訳されて,それをイスラームの人たちが伝えたことによっています。

 のちにヨーロッパ人は,アラビア語となったギリシャ時代の本があることを知り,共通語としてのラテン語の翻訳を始めました。ここで,初めてヨーロッパの学問が生まれ世界最初のボローニア大学,パリ大学が生まれ,ついでオックスフォード,ケンブリッジの大学が誕生します。いわばヨーロッパ文明は,イスラーム世界に取り込まれていたギリシャ・ローマの古典的な文献を翻訳し,移入することで,はじめて学問を本格化したのです。

5.結語
 文明の黎明は,文字のない時代に歌や物語りが起こり,それが文字化されるところにあります。書写が始まり印刷技術も生まれ普及し,詠むから,読むに移って,知識の集積ができるわけです。

 そうした知の形成のあり方が幾世紀も続いて,今日の文明の成熟をみていますが,現代社会の大きな特質は,これまでと全く違ったIT技術の発達が著しく,コミュニケーションの手段がデジタル化したことです。人々は無意識のうちに,自ら手で書くことからキーを叩いて表現するようになりました。その過程において,美しい言葉を交わすよりは単に記号を短く交換し合うようになってしまいました。そこには単純化された貧しい言葉の空中戦が起きているばかりです。 今こそ,文明の黎明を想起して,人類が脈々と創りあげてきた美しい言葉を交換する喜び,智の深みを探ることができる楽しみを忘れてはならないと思います。特に日本人は,古代社会を生きた人たちが残した優れた感性と文化の遺産を思い起こしながら,そのうえに,新たな日本の文化を発展させねばならぬと思っているところです。