卓話


佐竹本三十六歌仙絵と歌

2019年11月20日(水)

歌人 馬場あき子氏


 「佐竹本三十六歌仙絵」が今、京都の国立博物館で展示されています。今月26日までの展示です。鎌倉初期に描かれた彩色絵で、描いたのは藤原信実。その父は藤原隆信で、教科書等で見る源頼朝像、平重盛像を描いた大変有名な似せ絵の大家で歌人です。信実も歌人で、そうした歌人の目から、一首の歌から想像できる人物像を描いたところが実に面白いところなのです。

 藤原公任は紫式部と同じ時代の人で、藤原道長と同い年です。その時代から200年位後、写真などがない時代、人物を証明するものは歌しかありません。そこで、一条天皇時代の第一級の文化人である藤原公任が選んだ36人の一首の歌から、「この人はどんな顔をしてこの歌を詠んだだろうか、この人はどんな姿をしていただろうか」と想像しながら描いたのが三十六歌仙絵で、36人の絵が繋がっている絵巻物です。

 それが京都から流れて、秋田藩主であった佐竹家に伝わっていました。現代になり売り出され、鑑定されると国家を挙げて買わなければ買えない位の値段だったのです。その時、小田原に益田鈍翁というすごい茶人がいて、国家も買えないような値段だから、36人でバラバラに分配すればこの絵は保存されるだろうと考え、当時の財閥、好事家等36人を集めて、鈍翁の家でこれを36枚に切断し、くじ引きで分けたという曰くつきです。

 その後、流転を重ね、今は持ち主がわからず隠れている絵もいくつかあります。劣化が激しいため表に出したくないと、なかなか出して下さらない。それを今度、京都博物館が力を尽くして、三十六歌仙のうち31枚位が展示されています。私も初日に行きました。劣化がひどいものは10日や一週間交替で出るため、27、8枚の展示でしたが、今回見ないと最低半世紀、ひどければ一世紀は見られないと、大変人が押しかけているようです。

 歌詠みの立場から、この三十六歌仙絵を見るとなかなか面白いのです。先ほど、紹介者の矢澤さんが私の代表歌の一つを詠み上げてくださいました。
 「夜半さめてみれば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん」

 こんな歌からこんな私は想像できないだろうと思います。五十歳位の時に作った歌で今私は91歳ですからしょうがない訳です。しかし、信実は想像して描いたのです。

 最初に登場するのは柿本人麿です。人麿の伝説は様々で、位が高かった、全然位なんかなかった、鴨山で死んだとされているがあれは嘘だとか、はっきりいえばわからない人物です。この人の歌に公任が選んだのは、
 「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ」

 朝霧に閉ざされた明石の浦。その中を漕いでいく、よく見えない船を、どこに行くのだろう、誰が乗っているのだろう、何を目的に行くのだろう。そういうことをぼうっと思っていると、限りなく、船を漕いでいる人の人生や積まれている荷や、いろんなことが思われてくる。

 とてもいい歌です。この歌は、万葉集では人麿の歌ではありませんし、その後もこれは色々な作者名が付き、絶対、人麿の歌ではない。にも関わらず、名歌であって作者名がわからない時に、人々は作者に天皇の名前や有名な人の名前を付けて伝説を伝えてきたのです。そして、平安時代にはこれは人麿の歌だと皆が信じていたのです。ある時、人麿の像を想像して描こうじゃないかと人麿影供歌合(ひとまろえいぐうたあわせ)というものを工夫した歌人がいて、当時の絵師に描かせた人麿像を掛け、拝礼してから名歌を競ったのです。それから200年後の信実はこんな人麿像を描きました。

 柔らかくあぐらをかいて、ゆったりとした普段着を着て、肩はだらーんとして、片方に筆をもう片方に紙を持ってぼうっと向こうを見ている。いい歌を創る時は緊張していてはいけない。大事な時には脱力をしたほうがいい考えが生まれるんじゃないかと考えたのかもしれません。さすが似せ絵で、目だけは鋭く遠くをすーっと見てる。何かを見通しているようなこの目がなかなか素晴らしいと思いながら見て参りました。

 在原業平はすごく不幸な人です。天皇の孫ですが、祖父の平城天皇は弟の嵯峨天皇と争い事を起こし、近親は皆処刑されました。長男の高岳親王は皇太子の位を奪われて、日本を捨てます。頭を丸めて中国に渡って、南下してベトナムあたりまで行き病死します。平安初期の人は意志が強くて足も達者で命の限り自分の目的に向かって歩いていった。その弟の阿保親王に生まれたのが業平です。罪悪人の系譜のため生まれながらに出世できない。だから人生に目的が半分ないんです。

 業平は一世の色好みとして知られていますが、単に多くの女性と恋愛をするのではなく、命がけです。例えば、この人は皇太子妃候補であった高子君という藤原氏の女と恋愛します。皇太子妃候補ですから、藤原氏は大騒ぎで追い詰めて二人でいるところを引き裂いて高子を奪い返して清和天皇の妃に据える。しかし、業平は天皇の血を引いていますから、罪科にする訳にもいかない。相思相愛でしたから。しかしますます出世はできない。 業平の縁戚に妻の姉の子供、惟喬親王がいます。文徳天皇の第一皇子ですが、藤原氏の権力によって、皇太子に立てられなかった。でも、業平は惟喬親王を守っていかねばなりません。

 ある春の日、業平は惟喬親王を中心に渚の院で桜の会を催しました。その時詠んだ歌です。
 「世の中に耐えてさくらのなかりせば、春のこころはのどけからまし」

 世の中に桜というものがなかったら、春はのんきでいいだろうなあ。

 そんな歌を聴いて渚の院にいた人達はみんな涙を流しました。桜とは何か、花とは何か。桜を読み替えて意味を取る人があったならば、この歌は切実な隠喩、暗喩になります。世の中にもし藤原氏がいなかったら、世の中はどんなに幸せだろうという意味になる。桜という言葉一つが意味を持つことを業平は歌い、皆を泣かせた訳です。

 業平は天下の美男子で、像もすごく美男子に描いてあります。36人のうち扇を開いて胸を仰いでいる姿は業平以外にありません。普段着よりもちょっといいものを着て、優しく美しい目で何かを見ている。桜なのかもっと遠いものを見ているのかわかりません。

 次に小野小町。業平とともに美男美女のトップに挙げられる人ですが、小野小町を見た人は誰一人いません。紫式部の時代よりももっと昔の人だからです。どう描くか、どんな顔に描いたらいいか困った信実は後ろ向きの姿を描いたのです。

 小町の美貌を証明するものは着物です。ものすごく美しい十二単を着せました。今ははげて薄汚い赤になっていますが、科学的に透視すると、原形は銀色で、一番上の表衣に美しい文様が入っている。当代めったに着ることができないような表衣を着て、優雅な模様入りの裳を引き、豊かな黒髪が流れている。平安朝時代、女の美を測ったのは黒髪。季節も秋になると長く沢山ある髪は冷たく、男の人は艶々した冷たい黒髪をなぜながらそれが背中に沿って流れている様を鑑賞した。

 「心の乱れも黒髪の乱れもしらないうちふせばますかきやりし人ぞこいしき」
と和泉式部は歌っています。黒髪の乱れを直してくれる男、やさしい恋人を見ているんです。

 「色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(小野小町)

 色も見えないでいつのまにか変化して私を遠ざけてしまうものは世の中の人の心の花。心の花が咲く、それはよく咲く時もあれば憎く咲く時もあって、自然のうちに私を阻害している。人の心って見えないもんだなあ。

 小町は何人の男に裏切られたか、何度世の中に裏切られたかわからない。小町は私ぐらいの年になった時は乞食になって歩いていたという伝説がありますが、歌は非常に格調があって美しい。しかも個人的なものに終始しない。「心の花」という言葉は王朝時代にとても大事にされました。今も佐佐木信綱さんが興した歌の雑誌『心の花』がお孫さんの幸綱さんによって継続されています。そうした長い歴史を持った言葉です。

 昔は天皇家にお妃が沢山いました。皇后、中宮、女御は通常3、4人。その下に更衣や御匣殿(みくしげどの)。 全部で10人位いたでしょう。皇統は絶えるはずがありません。逆にいうと沢山の子供をどうするかを天皇は考えなくてはいけません。

 女の子は財力も権力もある人に降嫁する。例えば、源氏物語の光源氏は初老になって若い女を嫁にもらう年ではないのに、天皇が女三宮を押しつけてきます。「ぜひもらってくれ、そうじゃないとこの娘がどうなるか心配で夜も眠れない」というように女の子の始末は天皇の重責でした。男の子は宮様のまま官僚の長官に、そうではない者には源氏、平氏という名前を与えて臣下に下した。

 「人の親の心は闇にあらねども子を思う道にまよいぬるかな」(藤原兼輔)
 娘・桑子が醍醐天皇の更衣になっていました。身分も女御以下のため、天皇にどんな待遇を受けているか心配で夜も眠れない。娘が本当に天皇の愛情を受けられているかどうか、せめてそれだけでも知りたいと、ある日この歌を書いて天皇に差し出した。天皇はそれを見てひどく感動した。人の親というのは誰もこういうものだ、身分に関わりはないというので、たちまち桑子を一夜お呼びになり子供が生まれたというめでたしめでたしのお話になっています。

 これが手紙だったらダメですよ。歌だからOKになった。こうした歌がいかに有効に歌われていたかを考えても大変素晴らしいですが、小野小町は後ろ向き、そして、藤原兼輔は非常にかしこまって優しい顔をして笏を立てて「どうぞうちの娘をよろしくお願いします」という顔で描かれている。藤原信実がやはり歌人であり絵描きであったことでこうした絵が描けたんだと思うんです。

 今から800年前に描かれたそうした絵が今日に残っていることの幸せ。もしお時間があったらご覧に行って頂きたいと思います。


    ※20191年11月20日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。