卓話


『八重の桜』と『ゲゲゲの女房』にみる日本女性の強さと美しさ

2013年4月10日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

作家・ライター
五十嵐 佳子 氏

 『八重の桜』は幕末のジャンヌ・ダルク,あるいはハンサム・ウーマンとよばれた会津出身の女性,山本八重の物語です。

 八重の生まれた19世紀半ばは,列強の東洋進出の時代でした。1840年にはアヘン戦争が起きています。1854(嘉永7)年,黒船に度肝を抜かれた日本はアメリカと日米親和条約を締結し,下田,函館の港を開きました。

 国内にも大きな変化が起こりました。1858(安政5)年の安政の大獄,その2年後の桜田門外の変。幕府の権威と権力は急速に弱くなっていきました。このような時代背景とともに,八重に特に大きな影響を与えているのが,会津という場所です。

 会津は古くから,奥羽勢力に対する抑えの地でした。江戸時代には2代将軍徳川秀忠の子,保科正之が藩主となり,その子・正容(まさかた)は幕府から松平姓を与えられ,正式に徳川親藩に組み入れられました。会津藩の藩是の第一には「徳川家に忠勤,忠義を尽くさなければならない」とあり,将軍家への絶対的忠誠を誓っています。

 会津藩では,人材育成のために徹底して教育を行っていました。武士の子供たちは,6歳になると「什」という組織に属して集団生活の心得を学びました。「幼年者心得之廉書(かどがき)」という会津独特の家庭教育の指針もあります。これらは,父母や年長者を敬い下の者や弱い者を助け,礼儀正しく居なさいという精神に貫かれています。上級藩士の子弟は10歳になると藩校・日新館に入学し,文武両道の教えと共に,六行(りっこう)といわれる人間教育も行われました。

 八重は,1845(弘化2)年,会津藩の鉄砲方の山本家に生まれました。八重に大きな影響を与えたのは兄の覚馬です。覚馬は,日新館では武の人として注目されましたが,後に江戸の象山塾に学び,日新館に蘭学所を開いた,広い見識を持った人物でした。

 八重が17歳になった1862(文久2)年,西国雄藩が発言力を強め,幕府の弱体化が明らかになった時期に,松平容保は幕府から「忠勤」の藩是を持ち出され,京都守護職を引き受けさせられました。ここから会津は悲劇の道を歩み始めます。

 大政奉還の前年,八重は21歳のころ,8歳年上の川崎尚之助と結婚します。尚之助は但馬出石藩出身の砲術に長けた蘭学者でした。

 やがて会津は追い詰められ,1868(明治1)年8月23日,ついに新政府軍が若松城下に進行します。白虎隊が自刃して果てるという悲劇もこの日,起きています。同じ日に,生き恥を晒したくないとして自害した女性も233名に及んだといわれています。

 1カ月後の9月22日に会津藩は降伏。この夜,八重は場内の白壁に笄(こうがい)で歌を刻みます。

「明日の夜はいずくの誰かながむらん なれし御城に残す月影」

 冴え冴えとした月の光が差し込む様子が見えるような歌だと思います。

 理由は分からないのですが,この後に,八重は尚之助と離別しています。

 それから3年後の1871(明治4)年,死んだとばかり思っていた兄の覚馬が京都で生きているという報が届き,八重は母と覚馬の娘の「みね」と共に京都に向かいます。

 覚馬は京都で薩摩藩に捕まっていたのですが,その幽閉中に新国家の青写真を描いた「管見(かんけん)」を新政府に建白したのが高く評価され,京都府顧問として迎えられていました。ここから八重の第二の時代が始まります。そして,夫となる新島襄との新たな出会いが訪れます。

 新島襄は上州安中藩生まれで,13歳から蘭学を学び,アメリカの新知識や聖書に感銘を受けたことがきっかけで,アメリカ商船で密航してアメリカに渡ります。

 襄はアメリカのボストンで洗礼を受け,大学に進学し,理学士の称号を得て卒業。そして襄は日本に,キリスト教に基づいた大学を作るという夢を持って帰国します。この時,襄が学校設立の相談を持ちかけた相手が,八重の兄,覚馬だったのです。

 明治8年に,襄は同志社英学校を開校。翌年八重が洗礼を受けて,二人は結婚しました。襄は32歳,八重は29歳でした。

 熱心な仏教徒の多い京都で,クリスチャンに対する反感は激しく,襄と妻八重に対しては厳しい目が常に注がれていたそうです。

 そのなかにあっても,襄はレディファーストで,常に「八重さん」とさんづけで優しく呼びかけたといわれます。一方,八重は,親しみをこめて「サンキュー,襄」と呼んでいました。女性が3歩下がって歩くのが当然という時代にあっては,八重の評判は散々でした。しかし,襄も八重もそれを気にするようなことは全くなく,アメリカへの友人への手紙で襄は八重のことを「彼女は生き方がハンサムなのです」と綴っております。

 その後,八重は,女子教育を行う同志社分校女紅場,同志社病院などを,次々に開設した襄を支えて共に歩みます。けれども,襄は48歳という若さで亡くなりました。襄が亡くなった後,覚馬が同志社の臨時総長となって尽力しますが,2年後には覚馬もこの世を去ります。ここから八重の三番目の人生が始まります。

 八重はその後,社会福祉活動に力を注ぎます。日本赤十字社の正社員となり,看護学校の助教師として後進の指導に当たります。また八重は,日清,日露の戦争では,広島や大阪で傷病兵の看護活動を続けました。

 こうした八重の人生と向き合ってみると,人間の底力をつくづくと感じずにはいられません。時代の転換期に,戦に敗れた会津の人々は大変な目に遭いました。けれども自分のことをあわれんだりすることなく,顔を上げ,よりよい世界を築くために尽力した人たちがたくさんいるのに驚かされます。

 例えば家老の家に生まれた山川兄弟です。

 長女の二葉は,女子高等師範学校の舎監となり,教育者として活躍しました。長男の浩は,陸軍少将,高等師範学校や女高師の校長を経て,後に貴族院議員に選ばれています。三女の操は権掌侍(ごんのないしのじょう)として照憲皇太后に仕え,フランス語の通訳も務めました。二男の健次郎は後にアメリカに留学し,帰国後は東京帝国大学で教壇に立ち,後に総長まで務めました。

 末娘の咲子は,日本女子初の海外留学生となり,帰国後は陸軍大臣の大山巌と結婚して,大山捨松となり,鹿鳴館の貴婦人として活躍しています。日本のナイチンゲールといわれた瓜生岩子も会津の女性です。

 なぜ会津の人々はこんなに強く優しく,しなやかな生き方ができたのかと考え,行きついたのが,「無私」そして「義のために生きる」ということでした。

 利害や損得を顧みず,自分が大切にしているもののために身を尽くして生きる。我が身を投げ出す。卑怯なことはせずに,一徹で清々しい生き方を,心身に叩きこんでいたからこそ,最後まで一丸となって戦い抜くことができ,負けてなお,毅然と顔を上げ,新しい生き方を凛々しく選択できたのではないかと思います。

 ところで,この八重と「ゲゲゲの女房」の布枝さんに共通項があると言ったら,皆さんは首をかしげるでしょうか。

 武良布枝さんは,お見合いをして5日後に結婚しますが,そこで布枝さんを待っていたのは,赤貧洗うがごとしの貧しい暮らしでした。仕事は順調な時ばかりではありません。夫婦も常に平和だったというわけではありません。けれども,貧乏時代に卑屈になることなく,豊かになっても偉ぶることもなく,布枝さんの立ち位置は微塵も揺るがないのです。そして,いつでも,やれることをひたすら一所懸命やり続けてきました。

 本当に,しなやかで優しく惚れ惚れするほどたくましい。そういうところが,八重と布枝さんに,共通しているような気がしてならないのです。

 自分の生き方を貫くしなやかな強さ,そして,人のために生きる。その力が家庭の中に向けられたのが布枝さんであり,社会に向けられたのが八重ではないでしょうか。言うならば,世の中をどっしりと支えてきたのは実は布枝さんのような人たちであり,世の中を切り開いてきたのは,八重のような人だと言い換えることができると思います。

 日本女性には,八重や布枝さんのように,忍耐し,気高く清々しく運命に立ち向かう力があると思います。そして女性たちの力を引き出して開花させてくれたのは,とびきりハンサムな日本の男たちであることも忘れてはなりません。

 労働を厭わず,自分の欲を離れ,義のためにも生きられるという希有な美点が,私たち日本人にあります。私たちは,どんな苦境にあっても夢を失わず,新しい未来を掴む力を持っています。そんな日本人のしなやかな強さと美しさを,八重を通して,感じ取っていただければ嬉しいと思います。