卓話


ぺリー来航と横浜世界史デビュー

6月9日(水)例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

横浜黒船研究会 
代表世話人 工学博士
崚帖《萇廖〇瓠

ペリーが最初に浦賀に上陸したのは、嘉永6年6月9日(西暦では1853年7月14日)でした。この時の滞留は6月3日に浦賀鴨居沖に投錨してより、6月12日に江戸湾金沢沖、大津沖を退帆するまでの僅か9日間に過ぎませんでしたが、翌嘉永7年再来した際は、2月10日(西暦では1854年3月8日)横浜に上陸し、3月3日(西暦では3月31日)日米和親条約の締結に漕ぎつけました。これが日本の歴史の激動の時代を迎える大きな起点になったわけです。

ペリーが江戸湾を退帆した後、幕府は海岸防備のために諸藩に出兵を命じました。私の曾祖父崚長ゾ擦癲に詆椶了の奏者番であった藩侯の募に応じ、江戸、そして横浜にも赴任しました。好昌は後に戊辰戦争の戦功で士分に取り立てられることとなるものの、この時は未だ侍奉公の身ではあり、一兵卒としての赴任でありました。私自身は1972年に横浜に移住しましたが、以来、曾祖父のこの横浜との繋がりから、自分の書斎に「横浜黒船館」という名前をつけ、当時の瓦版・浮世絵など当時の原史料により、一般士民の側の観点から幕末から明治にかけての横浜の歴史を調べてきました。

ペリー来航の当時、横浜は、戸数87戸、人口は1,000人ぐらいの村でありました。今の横浜は350万人ですが、ペリー来航の50年程前に,伊能忠敬が作った伊能大図に示された横浜村と比較すると、現在は、市域も数百倍に広がっており、大変な変わりようです。

ペリーがなぜ日本に来たのかということについては,いろんな理由があげられていますが,その代表的なものをご紹介しますと,
1.中国向けの米国商船隊の石炭補給基地を求めた。産業革命がアメリカにも及んで綿製品の輸出国として台頭してきたアメリカは,1845〜47年のメキシコ戦争の後,東海岸だけだった領土が西海岸にも広がりました。 そうすると.中国に行くのに太平洋経由で行くという可能性が出てきました。当時の蒸気船は大量の石炭を使用するので,中継基地が必要でした。そこで,日本を考えたという訳です。
2.捕鯨船の水・食料の補給基地を探す。当時のアメリカでは,まだ石油が発見されていません。灯火用の油もすべて鯨油です。当時、日本沿岸から見えるくらいの所までアメリカの捕鯨船が来ていたという状況でした。この捕鯨船の補給基地が必要だったわけです。
3.中国以外のアジアに市場を求めた。市場の拡大を求めて,「世界の市場争奪競争の懸賞国」といわれ,世界から孤立していた「未開国」日本への、商業的興味が高まりました。
4.米国内における海軍組織の生き残り策。メキシコ戦争で勝ったアメリカでは海軍力を削減しようというという動きがありました。当時,海軍の最高位である海軍大佐であった大幹部としてのペリーは、海軍力を温存するために、方策を講ずる必要があったのです。

ともあれ、嘉永6年にはペリーの艦隊が浦賀に来ました。この時の艦隊は、旗艦サスケハナ号とミシシッピー号の2隻の汽走戦艦と、プリスマ号とサラトガ号の2隻の帆走戦艦、計4隻の艦隊でした。

サスケハナ号は2500トン級の軍艦でした。当時最大の海軍国イギリスの最大の軍艦でも1000トンぐらいでした。日本近海にやってくるアメリカの捕鯨船は300トン、日本の船は100トン程度の内洋船ですから、ペリーの艦隊は、日本の人たちはそれまで見たこともない、世界最大級の艦隊であったわけです。この時、ペリーは、 久里浜応接所で、めでたく大統領の国書を日本側代表だった浦賀奉行井戸石見守に提出しました。ペリーについて、日本では悪印象をもっている人も多いのですが、事実に反することもありますので、ちょっと説明しておきたいと思います。ペリーが浦賀に来たときの任務は、発砲することなく、江戸湾内にて、幕府の責任ある交渉ルートに大統領国書を手渡すのが任務だったわけです。

ペリーは、出発時、フィルモア大統領から、正当防衛以外に発砲してはならないと指示されて来ました。ですから、ペリーにとっての、唯一の武器は,世界最大の大艦隊を見て貰うことだったのです。

嘉永6(1853)年6月8日に、ペリーは久里浜に300名の部下を連れて上陸し、日本側代表の浦賀奉行であった井戸石見守弘道に国書を提出し、来年また来ると言い残し、帰ります。その間、実に9日間の出来事でした。

幕府は、ペリー帰帆後、急遽、江戸湾にお台場を作ったり、江戸湾防備の指示を各大名に出したりしました。このため、地方から大勢の兵士が防衛地点に動員されました。

当時の幕府の政策は「由らしむべし知らしむべからず」でしたから、江戸の士民たちには沢山の兵士たちが何のために集まってきているかは十分には知らされて居りませんでした。そのような一般士民の好奇心に答えるため,黒船を描いた瓦版がたくさん出版されました。

瓦版の制作者にとっても、実際に黒船を見るチャンスがあった人は少なかったものですから,初期の、オランダの軍艦をまねて描いたあまり正確でないものから、比較的後期に出版されたかなり実情に近いものまで、多くの瓦版が残されています。

お台場の建設や、海岸防衛のために集められた、たくさんの人たちが、どこの藩の人なのかということも、人々の関心事ですので、各藩の旗印・馬印・船印などで示された江戸湾防衛の状況を示す「御固め図」なども大量に発行されました。

時ならぬ,兵士や建設作業員の大量の動員は,江戸に物価上昇をはじめとする,さまざまな問題を引き起こしました。それを風刺した,小倉百人一首の作り替えの「三十六歌仙」や「野暮台詩」の瓦版が大量に発行されています。

翌、嘉永7(1854)年正月(新暦の2月)に,予告よりは少し早くペリーは神奈川沖に来航します。今回は、汽走戦艦 サスケハナ号、ミシシッピー号、ポーハタン号、帆走戦艦 マケドニアン号、バンダリア号、帆走輸送艦 サザンプトン号、レキシントン号の計7隻と,遅れて到着した,帆走戦艦サラトガ号,帆走輸送艦サブライ号の、全9隻の艦隊です。

ペリーは,幕府と交渉して,嘉永7(1854)年の2月10日(新暦の3月8日)、当時の横浜村に上陸します。今のみなとみらい線 日本大通り「開港資料館」のある辺りです。ここに設けられた、横浜応接所で、ペリー提督と幕府との最初の日米交渉が行われました。そして新暦の3月31日に交渉が整って,日米和親条約が締結され、近代日本の横浜の歴史が始まったわけです。

ペリー提督と幕府の日米交渉は一般士民には瓦版で伝えられました。日本は,それまでいわゆる鎖国を続けてきましたから、外国との交渉とか交流とかは、諸外国が日本に貢ぎ物を持ってくるという朝貢外交の形をとりました。瓦版では、アメリカも、日本に貢ぎ物を持ってきたというふうに伝えられています。このように、当時出版された瓦版の内容には、現在の我々の常識を越えるものがあります。彩色瓦版「戎夷来降配船録」では「…ここに北狭アメリカ州と申ハ未だ古昔より不通の国なりしを此度和朝の徳をしたひ、国珍の貢を献じ、我朝のばヽかにぞくし、御代萬歳を仰ぎ帰帆せり。故にそのあらましをしるす。貢の品々ハ別録に出す」とあります。

実際に、米国側からはいろいろな品が献上されました。

模型の蒸気機関車には,日本の役人たちもたいへん興味を持ちました。瓦版では「走ル時ハ山海ヲ不厭,一日、ニ百里ヲ行ク事、恰モ飛竜ニコトナラス」と紹介しています。

日本側も返礼品をいろいろ贈りました。日本から米を贈ったのですが,そのときの趣向として、力士が約60キロの米俵を片方の肩に2つ担ぎ、もう一方の脇に2つ抱えて運ばせました。日本には力の強い者がいるぞということを示したつもりだったわけでしょう。
横浜の応接所で行われた相撲見物では、たまたま,力士の顔が血まみれになった取り組みがあって,「残忍な見世物」であったと「ペリー提督日本遠征記」には書かれています。

幕府は2千両の経費をかけてペリー提督の一行を接待したと伝えられています。今のお金に換算すると約1億5千万円です。
 アメリカ側も,旗艦ポーハタン号に幕府側代表を招いて大宴会を開きました。この時,日本側全権第5席の松崎満太郎は酔っ払ってペリーに抱きつき、ペリー提督に「日本とアメリカの心はひとつ」と言ったと,日本遠征記に書かれて居ります。

ペリーのいろいろな肖像画が,瓦版に残されています。ペリー自身を見る機会は黒船を見る機会以上に少ないわけですから,肖像画の多くは,風聞を基に描かれたものでした。このため,実にさまざまな異なった人物像が描かれていますが,そこに見る姿から、当時の人々が「夷人」をどのように見ていたかが分かるわけです。

安政5(1858)年6月19日、日米修好条約が調印されました。条約には「神奈川」と書かれていましたが、幕府は地理条件を理由に「横浜村」を開港地に選びました。19世紀初頭から東アジアの国際情勢は大きく変化し、さまざまな国の船が日本に漂着しました。鎖国政策をとってきた日本も対外政策を変えざるを得なくなっていました。ペリーの来航は、日本が外国に目を向け始めていた時期でもありました。 幕府の開国の決断は,鎖国政策を貫き通せなかったという屈辱感を国内に与え、それが体制を揺るがし、ついに慶応4(1868)年、幕府の終焉と、明治政府の成立を見ます。開国から明治政府の成立までの、わずか14年の間に歴史が急旋回し、開港の土地、横浜は、日本と西洋の文明を融合した、新しい文明の発祥の地となったのでありました。      

帰 国 挨 拶
        地区青少年交換留学生
         アンニーナ・ヨキネン

皆さん アンニーナ ヨキネンです。
初め私がフィンランドから来たといいますと、 日本の人たちはたくさんの面白いことを私に質問してきました。たとえば『ムーミンの国ですか?』『北極熊はヘルシンキの町を歩いていますか?』『サンタクロースはフィンランドに住んでいますか?』。何回も同じような質問を聞かれました。それだけフィンランドの国が日本の皆さんに知られていることが、とてもうれしかったです。

私は学習院に通っていました。そこでは 色々なイベントがありました。文化祭、運動会、 修学旅行、学芸会などです。文化祭では、学習院インターナショナルクラブでフィンランドの紹介をしました。運動会は私が日本に来てすぐだったので、2回だけダンスを練習して本番に臨みました。

修学旅行では奈良と京都に行きました。銀閣寺と清水寺はとてもきれいでした。銀閣寺は 建物とお庭が調和していてとても素敵でした。
 
清水寺はとても高いお寺です。だから、とても遠いところまで景色を見ることができました。修学旅行はとても思い出深いものとなりました。

フィンランドには学習院のようなイベントはありません。学習院にはじめて来た時、制服を着ることにもびっくりしました。

日本が初めてだった私にとって、日本の人たちはとてもやさしかったです。たとえば、よく私は新宿で迷子になりました。そのときいつでも、日本の人が私のことを助けてくれました。また交通機関はとてもすばらしいと思いました。毎日5分、10分おきに電車は出ます。

しかし1つだけ問題がありました。それは混雑です。フィンランドでは、全く電車が混雑することはありません。もうひとつ困ったことは 日本の湿気でした。フィンランドはいつでも乾燥していて日本のような湿気はありません。 何度シャワーを浴びても、すぐ汗をかいてしまうほどでした。

日本で生活してみて、日本には健康な食べ物が多いと思いました。たとえば豆腐、寿司、刺身などです。すばらしい食文化だと思いました。

長野を旅行して、日本とフィンランドの自然の違いを感じました。フィンランドは多くの湖と森に囲まれていますが、日本には険しい山がそびえていました。また日本は温泉が楽しめていいなと思いました。フィンランドにはサウナがあります。これもとてもいい気持ちにしてくれますが、日本の温泉、露天風呂は最高でした。

日本での生活はちがう文化を見るいい機会を私に与えてくれました。フィンランドの友達が経験できないことをたくさん体験できたと思います。また違う視点から自分の国フィンランドをもっとよく知ることにもなりました。

東京ロータリークラブの皆様にはとても感謝しています。そしてホストファミリーの皆さまの親切をありがたく思っています。遠山さん、 龍村さん、倉橋さん、佐藤さん、油井さん、五十嵐さん、本当にありがとうございました。

  



















ホストファミリーと一緒に記念撮影

 アンニーナ・ヨキネンさんは6月15日(火)のフライトで帰国します。妖精の国北欧からやって来たアンニーナさんにとって日本は地球上で一番遠い国だったと思います。慣れない日本語や食材に戸惑いながらも、ホストファミリーの方々の心温まるご配慮のお陰で、たくさんの思い出を携えて帰国することが出来るようです。
 会長・幹事をはじめ、地区委員、ホストファミリーの皆様、どうもありがとうございました。
 国際青少年交換委員会 委員長 龍村 全