卓話


「土俵」という聖域

2006年5月10日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

日本相撲協会 横綱審議委員会審議委員
脚本家 内館 牧子 氏

第4109例会

 私は3年前に東北大学の大学院に入学して宗教学を勉強しました。宗教学で何をやりたかったかというと大相撲の研究をやりたかったのです。つまり,「土俵」という聖域について,大相撲における宗教学的考察というのが私のテーマでした。これには実は,私の心の中では,いわばお尻に火がついたような状況がありました。

 2000年ごろから,女の人を土俵に上げなさいという声が大きくなってきました。実は,1976年にさかのぼって,荒川区で優勝した小学校五年生の女の子が国技館の本土表に上がることができないということがありまして,当時の青少年室長森山真弓さんが,相撲協会に対して「どうしてか。これは男女差別である。女の子を土俵にあげて相撲をとらせなさい」とおっしゃいました。協会側は「伝統ですから上げるわけにはいきません」と言い,その時は森山さんが引き下がりました。

1990年,森山さんは官房長官になって,再び,今度の場所では「内閣総理大臣杯は私が渡します」と詰め寄りました。従来からの慣例に照らしても,森山長官の言い分に間違っている点は全くありません。協会はあせりましたが,結局「伝統ですから」と「こういう世界が一つぐらいあってもおかしくはない」という理由を掲げて逃げ切りました。

2000年2月,全国初の女性知事となった太田房江さんは「大相撲春場所で自ら土俵に上がって府知事賞を優勝力士に手渡したい」と表明しました。女性学の学者とか識者たちが太田さんをバックアップしたりして,世の中の風が「女を土俵に」という方向に流れていきましたが,やはり,協会が押し切って太田さんの方が折れました。

私の結論を申し上げますと「女性が土俵に上がる必要は一切ない」と考えております。これは男女差別とは別のものです。私はそのことを週刊誌や新聞に書きましたが,時あたかも,グローバルスタンダードという和製英語が世間を席巻し始め,男女共働参画はグローバルスタンダードである。男女のすべて,老若男女のみんなが楽しめるのが国技である筈だ。だから,女性を土俵に上げるのは当たり前のことだ、という方向での動きでした。

私のように、女性を土俵に上げる必要はありませんと言ってくださる方もいましたが,「男女共働参画」という言葉は葵のご紋章みたいな言葉でもありましたので,動きがだんだん大きくなりました。

 たいへんあぶないことだと感じました。私は,男女不平等は勿論反対です。男だけ,女だけのどちらかが理不尽な目に遭うことは絶対にいけないと思いますし,男女は全く同じであって然るべきだと思います。

ここで考えなくてはいけないことは,伝統文化や宗教,それから民俗学的行事や伝統芸能,お祭りといったものの存在です。

例えば,沖縄では…滋賀県にもありますが…女の子だけの祭りに,不平等だと称して男の子を加えたら,その祭りは別のものになってしまいます。私は,男だけ、女だけで担う伝統文化があって然るべきだと思います。

 危険なのは,グローバルスタンダードという言葉をネイティブなものにも当てはめようとすることの浅はかさです。そんなことをしたら文化がどんどん痩せていきます。

イギリスであってもフランスであって,中国であっても,自分たちの民族の根幹をなしているもの、あるいはネイティブなものに対してグローバルスタンダードを当てはめようとする馬鹿げたことをするものはありません。しかし,日本ではやりかねないのが,今の状態であることにたいへんな危惧を抱きます。これは,私自身が相撲を勉強して,危惧に備えなければいけないと思いました。

「なんで土俵に女の人が上がれないか」ということを論ずるには,仏教や道教の問題,いろいろ問題があり,それを簡単に言ってしまうと誤解を招くことにもなりかねませんので,今日は「土俵という聖域」についてお話ししたいと思います。

聖域というのは,つまり「界」を結んでいるということです。「結界」です。土俵は、20個の俵で15尺の界を結んでいます。

 結界は,聖と俗を分ける装置なのです。結界は世界中にあります。大きく分けて,建築的結界と装置的結界に分けられます。万里の長城や,中世の西洋における城壁のように,がっちりと囲んで明らかに中と外を分けているのが建築的結界です。だれでも簡単に入ったり飛び越えたりできません。それに対して,日本にいちばん多いのは,簡単に飛び越えたりよけたりできる,あってもなくても殆ど壁になっていない結界が装置的結界です。

 例えば,20表の俵がつくる土俵です。宗教上の女人結界を示す石,この石はただの石ですが,この石がある場合は,そこから先には女の人は行けませんという石です。

 楽屋ののれんも,演ずる側の楽屋と客との結界です。芸者さんがお辞儀をする時に目の前におく扇子は玄人と素人の結界です。こういう結界が数限りなくあります。

日本では象徴的結界というのがあります。何もないのですが、「界」を結んでいるということを自分たちが理解し合う結界です。

 例えば,お茶のお手前で揉み手をします。これは清めている所作です。力士が土俵に上がった時に,ちりを切ります。戸外で相撲をとった時に身を清めるために草を摘んで,手で揉んで清めて捨てるという所作からきた結界です。こういう結界は自分たちの中に「心のけじめ」がないとわかりません。

ある建築学者は「日本の結界は,これは結界だから飛び越えてはならぬという心のけじめをもった人間にしかわからない。過去の日本人は全員がそれを分かっていた」と言っています。私は,日本人の民度の高さを示すものだと思います。

万里の長城と,扇子やのれんが,同じくらいの力をもっていて,聖と俗を分かつ結界であるということを日本人のだれもが分かっていた。例えば,農民でも牛馬結界があれば,そこで牛馬を止めて自分だけが進みました。

日本には,地鎮祭などに見られるように柱を4本立てて上を縄で結べばそこに神が降りてくるというユニークな宗教観があります。聖域である土俵にも4本の柱がありました。柱には,青,赤,黒,白の布を巻いていました。四方と四季を結界していたのです。青は春で青竜,赤は夏で朱雀,秋が白で白虎,冬は黒で玄武です。4本柱の上に屋根がついていました。

昭和27年,相撲協会はたいへんな決断で,四本柱を取り払って,柱の代わりに房を下げました。それぞれの房には,御幣が結わえてあります。実は,御幣は,初日の前日,土俵祭りをして,神様を御幣に憑依(ひょうい)させたものなのです。つまり神様がのり移って聖域を形づくっているわけです。

千秋楽のすべての取り組みが終わった後,お神酒をもった若い呼び出しさんと、その年に新弟子として入ったばかりのまわし姿の少年たちが土俵に上がります。はだし行司と呼ばれる若い行司さんが,神が憑依した御幣を手に掲げて土俵の中央に立ちます。

 みんなで,お神酒を回して手じめをした後で,御幣をもった若い行司さんを,十何人かの新弟子さんたちが,よいしょよいしょと胴上げをします。胴上げが何を意味するかというと,これは神送りなのです。

初日前に神迎えの行事をやって,15日の間守ってもらって,お陰様で無事に済みましたということで,お神酒を回して直会(なおらい)を済ませて神送りの儀式を済ませるということになるわけです。この簡単な一つの行事だけから考えても,相撲が単なるオリンピック形の純粋スポーツとはいえないということがお分かりいただいたと思います。

 私は,横綱審議委員として,相撲をやる人間は強ければいいとは絶対に思ってはおりません。まして横綱としての綱には,ちゃんと紙幣(かみしで)がさがっていて,神聖なものの意味があります。

強ければ何になってもいいだろうというのなら,別の格闘技をやるべきです。相撲の場合は,強いだけではない。そこのところをきちんとわかってもらわないといけないし,それが文化であろうという気がしています。

相撲に,「心・技・体」という言葉があります。プロのスポーツ選手であれば,なにも心が最初にくる必要はないのです。技,体,心の順であってもいい筈です。ところが相撲はいまだに「心・技・体」といっています。本当は,心・気・体だったものが,いつの頃からか,心・技・体となって,いささかスポーツ化されてしまったという声すらあるそうです。そういうわけで,私は,聖域としての土俵を守ろうと考えております。どうかご理解をお願いいたします。