卓話


米山梅吉翁を語り継ぐ

2018年10月3日(水)

ジャーナリスト
柴崎由紀氏


 米山さんは明治元年生まれで、今年、生誕150年になります。そして、終戦の翌年に亡くなっています。偶然にもポール・ハリスさんがほぼ同時期を生きました。米山さんは和田家の三男として東京で生まれ、父は武士、母は三嶋大社の神職の娘と伝わっています。

 大変利発だった梅吉少年は、静岡・長泉の地主である米山家へ養子に入ります。ところが、「このまま一生、地主で生きていいものか」と疑問を持ち、養家を飛び出して東京へ向かいます。東京英和学校、今の青山学院で学び、アメリカに留学します。帰国後の人生で代表的なことは3つ。三井銀行常務取締役、三井信託初代社長、三井財閥の全国規模の社会奉仕事業である三井報恩会の理事長を歴任しています。そして、東京RCを創設し、初代会長、ガバナーや国際ロータリーの理事をされ、「日本におけるロータリーの父」と称されています。その後は、青山学院の初等部を創設し初代校長になりました。

 留学時代は苦学したようです。私費留学生ということもあり、アメリカ留学当時のことは断片的にしかわかっていません。学んだとされるいくつかの大学へ問い合わせましたが、履修記録等は見つかっていません。オハイオ・ウエズリアン大学からは52歳の時に名誉学位を受けています。

 留学中の1893年(明治26年)に開催されたシカゴ万博で日本の出品物の解説員をしたことがわかっています。日本館「鳳凰殿」は京都の平等院鳳凰堂がモデルで、建築中から話題になり、見学者が沢山訪れ高く評価されました。建築家フランク・ロイド・ライトが影響を受け、のちに帝国ホテル(旧館)を設計しています。なおポール・ハリスさんもこの万博を一週間かけて見学しているそうです。

 帰国した米山青年は、晩年の勝海舟の家に通います。明治維新の立役者であった勝海舟を心から尊敬していたのです。特別に寝室まで通され、雑談から多くの教えを得ることができました。ジャーナリストを目指していた米山さんの最初の出版物は『提督彼理(ペリー)』で、題字を勝海舟が書いています。

 その後、米山さんは実業界に入り、三井銀行(現在の三井住友銀行)に入社し、三井財閥と共にその後の人生を歩みます。支店長時代に5人のお子様に恵まれました。大変な子煩悩で、家にお客様がいらっしゃると5人を並べ「これが無二の家宝です」と紹介したそうです。

 45歳で、『新隠居論』を発表しています。「言うまでもなく年を取ったら引っ込むべきだと言うのではない。それまでに得た経験をもって多方面に尽くすのがいい。人間として社会のために尽くすべきことは沢山残っているはずである。欧米の人々は仕事を引退しても社会とつながりをもち、それまでは忙しくてできなかった社会に尽くすべき義務を果たす。それが社会奉仕であり、報恩である」。そんな考えを既に持っていた米山さんが、その後アメリカで出会ったのがロータリークラブです。

 政府の特派財政経済委員に民間から大抜擢されて、渡米しました。渡米中、ダラスで日本人初のロータリアン福島喜三次さんを訪問し、福島さんに誘われて例会に出席します。福島さんは三井物産の現地法人の責任者。当時のダラスは綿花の大集積地で、福島さんは多額の取引を行っていましたが、大変誠実な人柄で競争相手の同業者に対してもいつも親身になっていたので大変な信望がありました。まだ30代だった東洋人がロータリークラブに迎え入れられていたことは、既にロータリアンとしての資質を備え現地の社会で大きな信頼を得ていたからで、彼のような人物がいたからこそ日本人とロータリークラブが関わりを持つことになったと言えます。

 この2人の尽力によって、1920年(大正9年)東京RCが設立されました。米山会長はロータリークラブの国際性を重視して、当初は国際的な視野を持ち、英語の原書を読み、英語を理解できる人のみを基準にして会員を選びました。世界のどの国のクラブにも劣らないことを誇りに思っていました。

 ところが大きな悲しみに襲われます。長男東一郎さんがわずか20歳で病死。関東大震災をはさんで、次男駿二さんが21歳で亡くなります。駿二さんは進路に思い悩み自ら命を絶ったと伝わっています。2人の息子を続けて亡くした無念さが、後に若き学生達を支援する活動に米山さんを駆立てる原動力の一つになったと思われます。

 また、関東大震災は、設立間もない日本のロータリークラブの転機になりました。世界中のロータリークラブからの友情あふれる支援によって、日本のロータリアン達は改めてロータリーの精神を認識し、自分達の活動を顧みる機会になりました。この後、日本のロータリークラブは順調に発展していきます。

 大震災後、三井本館が再建されます。国の重要文化財に指定され、完成後90年を経た現在も使われています。関東大震災の年に信託法が施行され、翌年、信託業法に則った初の信託会社、三井信託株式会社(現在の三井住友信託銀行)が設立され、米山さんは取締役社長に就任します。アメリカで学んだ新しい経営方法にも乗り出し、会社の組織を取締役会と経営陣の二つに明確に分け、自分は執行責任者として経営陣のトップに立ちました。現在、日本の多くの上場企業で採用されている「執行役員制」の導入でした。

 米山社長は信託業こそが「仕事を通じて社会に奉仕を」というロータリークラブの精神を実現できる最適な事業であると信じていました。「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」もよく口にし、仕事の中で、奉仕の精神を実践することを熱心に説いていました。「Keep Your Name Clean」(汝の名を汚すなかれ)と刻印された名刺入れを新入社員1人ひとりに手渡し、「奉仕の心と前向きな開拓心で信託の仕事に当たるように」と心構えを話しました。信託協会の会長として日本の信託業の発展にも尽くします。

 そして、いよいよ最後の大事業、米山夫妻の夢に取りかかります。青山学院初等部と幼稚園の設立です。当時の阿部義宗学院長(東京銀座RC)の「真の教育は根底から始めるのが大切であります」という言葉に深く同調し、青山学院の初等教育に財産と心血を注ぎます。米山さんは初代校長となり、幼稚園園長は春子夫人がなりました。ところがわずか数年で太平洋戦争。東京大空襲で初等部、幼稚園、近くにあった米山家本邸も焼失します。 戦後、復興した青山学院初等部は昨年12月に創立80周年式典を行いました。初等部には米山記念礼拝堂があり、初等部入口では米山初代校長先生の胸像が毎日登校する生徒を見守っています。

 さらに米山さんの遺志を受けて東京RCで始まった「米山基金」は全国のロータリアンの共同事業に発展し、1967年、「財団法人ロータリー米山記念奨学会」が設立され、昨年50周年を迎えました。民間では国内最大規模の奨学事業で、日本のロータリークラブ独自の事業として高く評価されています。

 米山さんは疎開していた三島の別邸で春子夫人と終戦を迎えました。病身にもかかわらず、貴族院の勅選議員として敗戦後の第一回目の登院に無理を押して出かけ、体調を崩し、日本のロータリークラブの国際ロータリーへの復帰を見ること無く永眠されます。別邸の門は、本邸跡に建つ米山梅吉記念館に移されています。記念館では、米山さんの生涯と日本のロータリークラブについての展示がされています。ゆかりの品の寄贈も続き、大切に保管、展示がおこなわれています。

 来年2019年は米山梅吉記念館の創立50年、続いて2020年はいよいよ日本のロータリークラブが誕生して100周年を迎えます。


2018年10月3日(水)

富士電機(株) 社友
(公財)米山梅吉記念館
副理事長 加藤丈夫君


 米山梅吉記念館は、日本のロータリーの創始者である米山梅吉翁の遺徳を偲び、その偉業を称え、ロータリー精神の普及を図るために財団法人米山記念館として昭和44年(1969年)に発足しました。

 ご子息・敬三さんのご厚意によって米山家本邸跡地の提供を受け、米山家縁の人々、地元や近隣クラブの寄付によって建屋が建設されました。その後、老朽化等により、平成8年(1996年)、梅吉翁没後50年の記念事業として建て替えられました。建設と建替えに、東京RCは率先して多額の寄付をさせて頂きました。

 館内には梅吉翁の生涯の足跡、著書、筆跡、遺品やロータリーの歩み、さらに米山奨学金の活動状況が展示・紹介されています。運営は地元と近隣クラブの方々の献身的な奉仕によって行われ、施設の維持管理はじめ春と秋の例祭、米山文庫や子供図書館の運営、広報誌の発行等、活動はますます活発になっています。

 年間170以上のロータリークラブから約5000名の会員の方々が来館され、日本のロータリーの聖地ともいうべき存在になっていますが、建屋の老朽化対策と合わせ、書庫や展示室、資料室等の増強が必要になっています。今年の米山梅吉翁の生誕150年、来年の記念館創立50周年の記念事業として設備のリニューアルに取組むことと致しました。

 実行委員会を設け、リニューアル計画策定の他、記念式典の開催、柴崎由紀さんの著作『米山梅吉物語』刊行の準備等を進めています。私も東京RCから派遣された副理事長としてメンバーになっており、事業推進にあたっては東京RCにも多大なご協力を頂きたいと考えています。

 運営をお手伝いするようになってから、ロータリアン、特に東京RCの会員は一度は訪問すべきと思うようになりました。改めてロータリーの本質を知ることができるように思います。

 今年春には当クラブから約20名の方が視察チームとして訪問されました。これからも多くの方に記念館を訪れて頂くようにお願い致します。