卓話


東京昭和散歩

2014年1月22日(水)

コラムニスト 泉 麻人氏


 私は東京都新宿区の北西側、落合で生まれ育ちました。落合文化村という、関東大震災の頃にできた有名な高級住宅街からちょっと外れたあたりに、私の実家がありました。父が慶應高校の教師をしていた関係で中等部を受験し、それからずっと慶應にお世話になりました。

 子どもの頃から街を歩いたり、東京の地図を眺めたりすることが本当に好きでした。昭和30年代の後半、路線バスがたくさん走っていたので、バスを乗り歩いて停留所を地図に書き入れることが趣味でした。そんなことをしているうちに東京の町の名前を覚え、大人になって文章を書く仕事をするようになり、東京の町を歩いて建物の歴史について書くようなエッセイが仕事の主流になりました。

 今日こちらに来る際、丸の内線に乗って一つ手前の霞ヶ関で降り、日比谷公園の中を歩いてきました。明治の開園時からある心字池の周りに高齢の方達がカメラを構え、アオサギという都心では珍しいサギの仲間を眺めていました。東京シニア自然大学の皆さんで、カメラをのぞかせてくれました。

 日比谷公園越しに眺めると、前が開けているので通り沿いの建物がよく見えます。堀端の道には、明治生命館や第一生命館などクラシックな建物が残っていて、これらは昭和の初め、関東大震災後にできたコンクリート建築です。終戦後、GHQが使うために爆撃しなかったという説もありますが、。日比谷一帯は比較的クラシックなコンクリートビルが残っている地域です。

 私が子どもの頃、クラシックな建物といえば明治の建築を指しましたが、今時の昔懐かしい古い建物といえば、大正の大震災後、昭和の初めにいわゆる復興建築計画で建ったビルディングが多いわけです。そうしたビルの一角には竣工年代が記されていたりします。それを見ると、1930年前後に出来上がったものが多いんですね。

 東京の町を歩くときに、趣のある建物を眺めるのもいいものです。さきほどご紹介にあずかりました『大東京23区散歩』の取材で東京23区を千代田区から順にくまなく、4、5年かけて歩きました。一日歩きますと、私の携帯電話の万歩計は2万5000歩位になり、かなり健康にもいい仕事です。それでは、そのときに撮った写真をご覧にいれながらお話ししていきましょう。

 最初の写真のサカエヤには、ミルクホールという暖簾がかかっています。ミルクホールは昔の喫茶店の一種で、牛乳がまだ珍しい頃にそれを売り物にしたもので、大正から昭和にかけて流行した名前の一つでした。神田須田町、地下鉄の淡路町から神田の駅前に抜ける多町大通り(たちょうおおどおり)に面して今も頑張っているお店です。もともと木造建築ですが、洋風にしゃれて見せようと、入り口の外壁のところだけ銅板を貼った昭和の初めに流行した商店建築の一つで、俗に看板建築と呼ばれているタイプの建物です。神田、上野、築地あたりの裏通りに入ると、この手の建物が今も残っています。もちろん作った頃の銅板は銅色をしていたわけですが、いまは緑青を吹いて味わい深い緑色になっています。他にも看板建築の建物で、ぱっと見るとコンクリートに見えますが、裏側に回ると木造だとわかるものもけっこうあります。

 今度は神田駅からもう少し岩本町寄りですが、北乗物町(きたのりものちょう)のあたり。神田の裏手には、小さい町工場のようなものが残っています。神田駅の東側には旧神田区時代の町、500メートル四方くらいの狭い町が並ぶ一角があります。北乗物町はその一つで、乗物町という名前がついた頃は人力車など車を作る店が並んでいたらしい。ちょっと行くと小伝馬町や馬喰町があって、この一帯は昔の運輸を司っていたところです。

 次はお玉稲荷大明神です。その昔、有名な池があり、そのほとりの茶屋の美人娘のお玉が池に身を投げたという秘話に絡んだ神社で、都営新宿線の岩本町駅からちょっと横に入ったあたりにあります。そばに「ふな亀」という、看板に「創業弘化二年」と記された江戸時代からの老舗の鰻屋があり、メニューに「お玉」という鰻の頭を蒸した変わった料理がありました。ここを歩いた3,4年前まではビルだけ残っていたのですが、最近惜しくも無くなってしまいました。

 秋葉原では最近の建物を撮りました。秋葉原も昭和の時代は、ディスカウントショップや、家電屋の町と言われました。もともと終戦直後の闇市で電気コンロなどを売ったのに始って、その後ラジオ部品で儲かり、それから大きなテレビやクーラーになり、いまはIT、アニメのDVDといったものへと、扱うものが広がってきた町です。いま秋葉原を歩いていますと、トルコ料理のドネルケバブサンドという、肉を焼いてハンバーガーのように挟んだもののお店がけっこう出ています。アニメのグッズなどを探しに来る子達というのはあまり食に興味がないのか、手軽に食べられるものを好むのか、ファーストフードのお店を多く見かけます。

 九段下の交差点に昭和の初めから長らく建っていた横長のビルディングは、九段ビルです。私が歩いた時点で建物全体にネットがかかっており「危ないな」と思っていたら、一昨年についに撤去されてしまいました。

 神保町にはメガネ型のビルがあります。周囲は高層ビルになってしまいましたが、2軒、出窓が円形をした独特の建物があり、道路の向かい側から眺めると、壁にメガネをあしらったように見えます。しゃれているなと思ったら、2階に本当にメガネ屋さんが入っていました。そのためにこういう建築にしたのかと、このあたりの古い写真集を眺めてみると、昔は円形の窓を置いた建物がずっと10軒ぐらい並んでいて、たまたま2軒だけ残り、メガネ風のたたずまいになったことがわかった。神田の古本屋街にはこうした建物が多かったのですが、いまは少なくなってしまいました。

 浅草橋の裏あたりで見つけた建物には、津田久吉商店というフルネームで屋号が入っています。神田、上野あたりの昔からの下町には近代的なビルになってもこうした昔ながらの屋号を残した建物が多いのが一つの特徴です。

 関東大震災後にできた十思小学校の建物は、浅草橋の小伝馬町の裏側にあります。いまは子どもの数が少なくなり区民ホール的に使われていますが、なかなか凝ったアールデコ風の建築です。すぐ脇に吉田松陰が囚われた有名な牢獄がありました。

 次は三越日本橋本店の塔の部分です。いまは閉鎖された見晴台に登りたくて、行くといつも屋上のところから写真を撮ります。昭和の初めのデパートのクラシック建築の一つです。

 この片倉キャロンという古いビルは、八重洲にあったのですが、こちらも惜しくも2年ほど前に建て替えられてしまっています。

 人形町あたりもおもしろい建物がたくさん残っている地域で、桃乳舎(とうにゅうしゃ)は人形町から南西側に行った、すぐ脇を首都高速が走る小網町あたりにあり、店名はミルクホールの名残です。屋号に牛に関連した字や舎という字を使うのは、牧場が経営していたレストランから始まった軽食屋に多い。昭和の初めぐらいからあり、いまも残っている珍しい建物です。

 銀座シネパトスは銀座の三原橋の地下、晴海通りの地下をくぐり抜けていく場所にある映画館です。私が学生の頃はもう地下道になっていましたが、それ以前は三十軒堀川という川が流れ、昭和の23年ぐらいから瓦礫処理目的で銀座で初めて埋められ、その後が地下道として残りました。三原橋というと昭和通りのあの立体交差のことと思う人もいるかもしれませんが、もともとの三原橋は川の上に架かっていた橋を指します。シネパトスのある地下道の横の道には10年ぐらい前まで風俗店のようなお店があり、有名な東京温泉というサウナとスチームバスをメインにした建物があったのも川の脇です。銀座の裏はそうした昭和の味わい深い建物がたくさん残っているところです。

 ここもそういう銀座裏なんですが、新富町の大野屋という足袋を売る老舗です。三吉橋という三つ叉の珍しい橋と新富町駅を挟んで中央区役所と反対側の一角帯にあり、大正期の建物ではないでしょうか、一軒家でいまも営業しています。この一帯が料亭街だった時代の名残で、芸者さんたちのために出店したことが洞察できる建物です。

 2月下旬に刊行予定の『大東京23区散歩』というエッセイは、「おとなの週末」に4年間連載したものですが、東京の町並というのは4,5年ぐらいでバタバタと建て変わってしまいます。本にする段階でなくなってしまった建物がたくさんあり、歩き直して加筆しているとなかなか本が出せないという状況でした。東京の町をエッセイのテーマにするとしんどいことになる、と痛感した次第です。

 散歩はお金がかかりませんので、皆さんも健康づくりを兼ねて余裕のあるときはぜひ町歩きを楽しんでいただきたいと思います。


       ※2014年1月22日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。