卓話


国際ロータリー創立104周年記念例会兼家族会
協力の輪を広げてー世界と日本ー

2009年2月25日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

名誉会員
独立行行政法人 国際協力機構
理事長 緒方 貞子氏 

はじめに
 
 私とRIとの関わりはたいへん古いものです。ロータリーフェローとしての経験をお伝えすると同時に、今、何が期待されているかについて考えていることをお話ししたいと思います。私自身も、ロータリーフェローを起点に国際経験を重ねてくることができましたし、「市民社会と国際協力」をテーマとしてお話しすることは私にとってもたいへん意味のあることだと考えております。

1.1950年代の米国社会と日本社会
私は、1951年に日本から2番目の国際親善留学生として米国ジョージタウン大学大学院に留学し、国際政治学科で学びました。1年6カ月の後、MAを取得して帰国した当時を振り返ってみますと、日本は戦後の初期で、平和主義的な雰囲気のなかで復興に向けての強い意志が社会全体に広がっていたと思います。私がアメリカ留学を志してロータリーフェローの試験を受けた動機は、アメリカを知りたい、自由世界のリーダーである素晴らしい国の人々に会ってみたいということを考えてのことだったと思います。当時、若者の間には「何でも見てやろう」的な雰囲気もありましたが、帰国後の私は、逆に日本に対する関心が非常に強くなりました。どうして日本が戦争を始めたのか、日本の歴史はどういうものだったのか、そのような関心から東京大学の研究生として日本の政治外交史を勉強するようになりました。

 私が船でサンフランシスコに着いた時は、サンフランシスコ講和会議の真っ最中でした。その頃のアメリカの人たちは、自由と民主主義で戦争に勝ち、世界のリーダーになったのだとたいへん自信をもって私たち留学生に親切に接してくれました。アメリカのことをよく知ってくれれば、日本も民主主義が根付く良い国になっていくでしょう、世界も平和に向かうでしょうという雰囲気が強かったように思います。また、私たちロータリーフェローは、国際親善の大使なのだと言われて出かけました。私たちには、民間大使として送り出されたという使命があったのです。アメリカでは、ワシントンDCのRCの会合にも出席しました。ロータリアンの方々がいろいろな所を見学させてくださいました。そんな訳で、留学生にしては社会勉強をたくさんさせていただきました。米国からヨーロッパ、中東に留学していたフェローとの交流も深めました。

 今にして幸運だったと思うことは、私が日本を出発した時の日本のRCは、第60区という一つの地区しかありませんでした。私がいない間に地区が二つになりましたが、一地区から送り出したのだからみんなの所に挨拶に来てくれという訳で、北海道から九州までずいぶんたくさんのRCを訪問して歩きました。当時のRC活動の印象を思い出してみますと、RCは一種の新生活運動のようであったと思います。地方の立派な素封家が時間どおりに会合に出席する、襷などをかけて奉仕に歩くなど新しいコミュニティー作りと社会奉仕を一生懸命になさっていた様子を今でも覚えております。いろいろな所のお宅にも泊めていただきました。

 RCは、当時の日本の様子、アメリカの様子を反映していたように思います。

2.日本の経済成長とRCの発展
 顧みると、戦後の日本の経済発展とともにRCは目覚ましい発展を遂げました。RCの地区も34地区になっています。クラブの数も2308と聞いています。ロータリーフェローも、私の前、1950年にお一人行かれて、次の年に私と、1年に一人行けるだけの寄付が財団に集められていました。2000年には370人をお出しになったと聞いております。大変な人数のロータリーフェローを送り出せるほどのクラブと財源を持ったということです。それは、決してRCだけの特徴ではなく、日本の発展を象徴したものだと思うのです。

確かに、戦後の日本は、政府主導による経済発展を心がけてきました。産業の機会も増大しましたし、経済も伸びました。特に戦後の早い時代では、アメリカの影響もあったのですが、どちらかというと格差を生まない一種のニューディール型の手法が中心になっていました。税制では累進課税が取り入れられ、終身雇用制を通じての労働者の保護と福祉、農地改革などがありました。その結果、日本に全員参加型社会が成立し、発展しました。RCは、それを推し進める役割を果たしてきたと思います。

RCには1企業・1名という原則があったと承知しておりますが、政府系関係者、民間企業、NGOなど社会のあらゆるものを包含した形の奉仕を心がけてこられました。それは市民生活を推進するのに大きな役割を果たしました。民間企業のCSR活動が高まっていますが、RCではRC精神の実践を通して早くから社会貢献活動を行ってきました。それが日本の社会に大きな影響を与えることになったと思います。

3.国際情勢(相互依存関係の高まり)
 私は、その後20年程教壇に立ち、学生を育ててまいりましたが、1990年からは国連難民高等弁務官として海外に出て国連機関で働いてまいりました。その過程において日本を外から見る機会が多くなりました。ヒト、モノ、カネ、情報がどんどん動く時代がやってきました。そういうなかで、日本の方たちはいったいどういう生活をしているのだろう、日本の方たちは日本をどう見て、世界との交流をどう考えているのだろうというようなことを考えながら仕事をしてまいりました。

 1990年代になり、冷戦が終わって東西の対立がなくなりますと、私が携わった難民の保護と救済もどんどん解決して静かな時代になるかと思っていましたが、今度は国内の紛争が出てきました。国内に溜まっていた差別、社会的、歴史的、宗教的な対立が火を噴いてきて、方々で国内紛争が起こってきました。そういう状況での難民の保護と救済が国連難民高等弁務官としての10年間の仕事の中心でした。国と国との戦争の場合には、難民が国境を越えて外に出てきたときに国連機関が保護する形になっていました。ところが、国の中での難民保護は、大変難しい状況下で行わなければなりません。今もその状況が続いており、国内にいて難民化した人たちをどうやって助けるかが大きな課題になっています。

 世の中は、国境を越えてどんどん動いています。それを痛感させられたのは、エイズの感染です。国境を越えるものが多くなりました。情報も動きます。人も動きます。そういう状況の下では、感染症が広まります。環境も汚染されます。国際犯罪なども容易に広まってしまいました。我々は、このように国境を越えて動く多くのものにどう対応したらいいのか。21世紀最大の課題は何かというと、国境を越えてすべてが動いていく時代にどうすれば人々が安定した生活を保ち、相互依存の実態をどう作り上げていくのかということです。
 
 2001年9月11日、ニューヨークでのテロ事件は世界に大きな衝撃を与えました。ちょうど私は、ニューヨークに滞在中で、国連難民高等弁務官としての10年間の仕事をまとめて本にするための執筆活動をしておりました。たまたま、私の住まいから貿易センタービルが火を噴く様子を目の当たりにしました。その時には、どうしたらいいかという問いに対する答えは出てきませんでした。国と国の戦争なら、対策として軍隊を使うことができます。しかし、あるイデオロギーを持ち、資金もかなり自由に動かすことができる人たちがアメリカで訓練を受け、しかも自爆するという脅威にどうやって対応したらいいのかという大きな問題が出てきたわけです。

 国境を越えてきた脅威に対して軍隊が対抗するという伝統的な安全保障の考え方では十分ではなくなりました。では、それに代わる安全保障はどのようなものかという模索は今も続いています。自分の国だけでは安全を保障できません。安全保障についても新しい問題提起がなされました。現状の中で痛感することは、自分の国だけで安全を保障し、繁栄を確保することはできなくなったということです。身体の安全もありますが、生産活動についても自国だけでは何もできません。日本のような国は、安全の面でも生活の面でも自国だけでは何もできない。日本で安全に確保できるのは「水」ぐらいしかない。他のものは、いろんな国からの輸入に頼っています。水も最近は輸入されてくるものが多くなってきました。加えて最近は環境の汚染が広がっています。
私たちは、これらへの対応を考えなければならない新しい時代に入っているというのが 21世紀の実態だと思います。冷戦は終結しました。国家間の対立にはいろいろな形で対応できますが、国内におけるいろいろな問題には国境を越えるインパクトがあります。「安全」をどう考えるかが大きな課題になっています。 

4.相互依存の世界での人間の安全保障
 
 2000年の国連総会で日本が提案国になり、「人間の安全保障」について新しい考え方を打ち出しました。国境を越えてすべてが動く時代に、自分だけが安全だと言うことができない状態のなかで、何に対して安全だと考えるのかということを模索し始めました。その過程で、1997年のアジアの金融危機を体験した当時の小渕総理が「ソーシャルセーフティネット」を作らねばならないと考えられ、「人間の安全保障」という言葉を提案されました。その言葉が次第に浸透して、とうとう国連事務総長が「人間の安全保障」とはどういう概念なのか定義してほしいと提案されました。

 インドのアマルティア・セン教授と私が共同議長になってコミッションを作り、ヒアリングや研究を重ねて2003年に「Human Security Now」を取りまとめ、概念の一応の定義をしました。‐すべての人が、基本的な権利と自由の上に立って生存し、生活し、人間としての尊厳を十分に尊重される存在となること‐定義することはやさしいのですが、どうすればこの定義に近づくことができるのかがかなり大きな問題でした。当時のアメリカで安全保障とは何かと問えば、「テロに対する対応」が答えでした。南アフリカでのヒアリングでは「明日、病気になった時に病院に行けるかどうか」、人によっては「明日の食料があるかどうかが安全保障」と答えました。

 新しい相互依存、グローバル化の時代にどのようにすれば安全が保障されるのかについて随分と検討し、まずは二つの方法から対応できると考えました。すなわち、「まず政府はもっときっちりした形で人々を保護する政治をやらねばならない、それにも増して大事なのは人々の能力の向上である、人々がきちんとした知識を持ち、自分たちの力で自治の能力をつけることが一番の鍵になる」と。このようなことを中心として人間の安全保障の考え方が整理されてきました。人々の能力向上とは、つまり市民社会の強化です。一人一人が強くなっても、結び付いていかなければ人間の安全保障を追及する力にはなりません。そしてまた、何か一つだけに強くなればいいというものでもない。例えば、保健衛生だけやれば、教育だけやればいいというものでもありません。いろいろなセクターを結び付けたコミュニティーづくりによる集団的な能力向上が一番大切だという結論を得ました。市民社会を通して能力を向上させることを目標に掲げたわけです。

5.開発援助の役割と新JICA

 今、私は、独立行政法人国際協力機構(JICA)で開発援助の責任をとっておりますが、開発の目的もかなり集約されていくと思います。いくら道路がよくなっても、いくら能力のある人が政府の要職に就いても、市民社会が強くならなければ人々の生活を築いていくことはできません。私どもの援助の哲学も段々育ってきています。自分たちの都合のいいものを持って行って援助するのではなく、相手の人々との交流を通して相手が何を必要とするかを見定め、また、能力を高める訓練をすることによって一人一人を強くするだけではなく、社会が動き、国が自立することが目的であるというところまでは理論的なコンセンサスができあがりました。それを実現させるのには、まだ大きな問題が残っていると思います。

 昨年、第4回アフリカ開発会議が横浜で開かれました。アフリカに対する援助を大幅に増やすことにしました。今まで援助してきたアジア圏の国々とも一緒になって援助を世界的なものにしようという計画です。特に気候変動については一層の注意を払っていくつもりです。どこの国に責任があるかではなく、世界の国が一緒に考えていこうということが大切だと思っております。

結語 ロータリーの新たな使命と期待

 以上のような問題に対応する主体として、国際ロータリーの役割には非常に期待されるものがあります。国際協力にもっと力を注いでいただきたいというお願いも兼ねてのことです。国際ロータリーの2008〜09年のテーマは「夢をかたちに」というものであり、子供の死亡率低下、保健と飢餓の追放、水、識字教育に関する活動を重視されていると聞いています。JICAは、限られた力で努力をしており、国際ロータリーや日本のロータリーが協力してくだされば、いろいろな悩みを持つ新しい世界への強力なインプットが可能になります。

 2月23日のHerald Tribune紙に国際ロータリーが広告を出しておられます。ゲイツ財団と連携してポリオ撲滅に大きなコミットメントをするという広告でした。RCによる社会貢献の力強いアピールだと思います。このような力強さと可能性、その方向性に深い感銘を受けました。世界で一番必要とされている事業をこれからも推進してくださるようにお願いしたいと思います。