卓話


東京2020パラリンピック競技大会に向けて

2016年11月16日(水)

一般社団法人日本パラリンピアンズ協会
理事 田口亜希氏


 客船「飛鳥」のパーサーとして働いていた25歳の時、突然、身体全体に激痛が走り、救急車で運ばれ、気付いた時には両脚が動かなくなっていました。脊髄の中の血管が破裂して中枢神経を圧迫し、胸椎の神経を傷つけていました。交通事故等による脊髄損傷と同じ症状です。

 最初の病院は脊髄損傷についてあまり詳しくなく、お医者さんもリハビリの先生も「少し障害が残って、今までのようにスタスタとは歩けないかもしれないけれど」という感じだったため、「それなら一生懸命リハビリをして元の身体に戻ってやる。船の仕事に復帰する」と思っていました。 発病から約3ケ月後に脊髄損傷専門のリハビリがある病院に転院し、そこで現実を知らされました。医師から「現在の医学では脊髄中の神経は繋ぐことが出来ないから、もう一生歩けないよ。折角良い仕事していたのにもったいないね」と言われ、最初は全く理解できませんでした。

 自分では歩くためのリハビリを受けるために転院してきたと思っていたのに、そこで受けたのは車椅子で生活するためのリハビリでした。あの頃は自分がベルトコンベアに乗せられて「あれやれ」「これやれ」と一方的にリハビリをさせられているようで、自分の気持ちが置き去りにされ、本当に辛かったです。

 それまでの生活が一転し、今まで普通に出来たことが全くできなくなり、周りの人と自分を比較し落ち込みました。「こんな身体ではもう一生働けないだろう。外出も出来ず、一生家の中でずっと暮らすんだろう」とも考えました。そのため、当初は「医学が進歩して手術の方法が見つかるまでは、入院して病院のベッドで暮らす」と思ったこともありました。

 でも、お見舞いに来てくれる友人達が、普通に働いたり、遊んだり、楽しそうにしているのを見て、「何もしなくても一日一日は過ぎていく、それなら何かしないともったいない。前に進みたい」と思い直し、退院後の車椅子での生活のためのリハビリに励むようになりました。

 自分で車椅子に乗り移り、車椅子を自身で車に積み込めるようになることと、今日の帰りに歩道を見ていただくと判るのですが、所々欠けていたり陥没している所、また歩道と車道の数センチの段差で車いすの前の車輪が引っかかって身体が車椅子から落ちてしまう時があります。そのような場合を想定して、車椅子から落ちた場合に自分の腕の力だけで車椅子に上ることをゴールに決め、一生懸命リハビリをしました。リハビリと気持ちの整理がつくまで、結局4つの病院で合計一年半の入院生活をしました。

 発病から2年半後に仕事に復帰しました。2年半の間仕事をしてなかったので、仕事が出来ることはとてもうれしく、新たな仕事に夢中になりました。その一方で何か趣味をと思い、以前同じ病院に入院していた知人から誘われたビームライフルを始めました。

 ビームライフルは光線銃を使うため、銃刀法に関わらず、手軽にできる日本独自の射撃競技です。その時のコーチにエアーライフルに誘われ、試験を受けて所持許可を取って、競技を始めるようになりました。その時はパラリンピックを目指していたわけではなく、出来ることがあることがうれしく、コーチや周りの人に言われるがまま試合に参加していると、いつの間にか世界選手権に出場することになり、そこで上位の成績となりました。コーチ達から「もしかしたらパラリンピックに出られるかもしれない」と言われ始めて、2年後の2004年のアテネパラリンピックを意識しました。

 病気になってから先のことを考えるのが怖く、あえて今日や明日といった目先だけを考えるようにしていましたが、射撃を始めて目標ができ、目標に向かって努力することが出来ました。いつの間にかアテネパラリンピック、さらに4年後の北京パラリンピックへと目標を持って考えられるようになり、少しずつ前向きになれたと思います。それにはサポートしてくれたコーチ、応援してくれた家族、友人、同僚の存在があったからだと思います。

 パラリンピック射撃競技には、短いピストルと、長いライフルがあり、私は長いライフル銃で行う2種目に出場しました。

 一つは屋内競技の「10mエアーライフル伏射・男女混合60発」です。10m先の標的を狙い、最高で10点となる0.5 mmの点を撃ち抜きます。60発を撃ちますが、現在の世界のレベルで決勝に残るためには60発すべてを10点に当てなければならず、技術だけではなく、集中力、精神力が必要となります。

 もう一つは屋外競技の「50mフリーライフル伏射・男女混合60発」です。こちらは22口径の火薬の弾を使用し、10点圏の直径は10.4mmです。火薬を使うためエアーライフルより反動があり、風や光の影響もあり、距離も遠く、こちらも60発を撃ちますが、1点で明暗が分かれます。

 パラリンピックの原点は、1948年ロンドン・オリンピックに合わせてイギリスのストーク・マンデビル病院内で開催された車椅子スポーツ競技です。同病院のルートヴィヒ・グットマン博士が第二次世界大戦で脊髄を損傷した兵士の治療と社会復帰のためにリハビリの一環として、また「手術よりスポーツを」の理念で始めました。グットマン博士の言葉に、「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」があります。これは障害者だけでなく、誰にでも、そしていろいろな状況に当てはまるのではないでしょうか。 競技会は当初、入院患者のみだったそうですが、毎年開催され続け、1952年には国際大会となり、1960年にオリンピックが開催されたローマで第9回大会が開催され、これを第1回パラリンピックと呼んでいます。

 第2回は、1964年に夏季オリンピックが開催された東京で行われました。その時の正式名称は「第13回国際ストーク・マンデビル車椅子競技大会」でしたが、愛称として「パラリンピック」と呼ばれました。Paraplegia(脊髄損傷等による下半身麻痺者) + Olympicの造語でした。その後、1985年、パラリンピックを正式名称として使用することが認められ、その頃は半身不随者以外も参加するようになったため、Parallel(平行)+オリンピック(Olympic)で、「もう一つのオリンピック」として名づけられました。2020年、東京は世界で初めて2回目の夏季パラリンピックを開催する都市となります。

 第2回パラリンピックの参加国は22ケ国で、選手は400名前後、競技は9競技144種目でした。その大会までは、日本の重度身体障害者医療は身体を動かさないこととされており、当時、日本人選手の多くは病院から試合に参加したそうです。一方、欧米の選手は自国で普段は仕事をし、そして、試合が終わり夜になるとタクシーを呼んで東京の街に遊びに繰り出す姿に日本人は驚いたそうです。

 東京パラリンピックを契機に、日本において障害者スポーツが広く認知され普及し、また障害者の自立や社会参加、社会貢献が考えられるようになりました。開催に尽力し日本の「障害者スポーツの父」と呼ばれる大分県の中村裕医師が閉会式後、「これからは慈善にすがるのではなく、障害者が自立できる施設を作る必要がある」と述べ、また障害者スポーツの意義について、「一般に社会は障害者の能力を実際以下に低く評価する傾向があるが、スポーツは第三者に彼らの能力を再認識させるよい機会を与えることになりその意義は大きい」と著書でも書いています。

 パラリンピックとは、国際パラリンピック委員会(以下、IPC)が主催する主に肢体不自由の身体障害者(視覚障害、知的障害者も含む)を対象とした競技大会の中で世界最高峰で、オリンピックと同じ年に同じ場所でオリンピック後に行われています。

 IPCは1989年に設立され、本部はドイツのボンにあります。会長のフィリップ・クレバン氏は、イギリス人で車椅子バスケットの元選手で、「障害者という言葉でくくられるのではなく、皆と同じように一つの社会を構成している。ディスエーブルではなく、皆と同じ人間。ワン・ワールド、ワン・ドリーム、ワン・ピープルだ」と話しています。

 今年9月に行われたリオデジャネイロ・パラリンピックは南アメリカ大陸で初の開催となりました。私は今回、バリアフリーの視察を含め全日程行って参りました。159ケ国・地域・難民選手団の選手は約4300名(ロンドンは4280名)、22競技528種目となり、1964年に比べ参加国は7倍、選手数は10倍以上となり、日本からは132名の選手が参加しました。

 日本ではオリンピックほどメジャーではありませんが、チケット売り上げ枚数では世界で3番目のスポーツイベントです。リオでは8月中旬時点でチケットは12%しか売れておらず心配されていましたが、オリンピックが終了したとたん売り上げを伸ばし、売り切れになる競技もありました。最終的なセールスは80%の約210万枚となり、ロンドンに続く史上2位の販売枚数となりました。現地の日系人に聞くと、ギリギリにしか動かないブラジル人の典型的な行動パターンだそうです。

 大会初日は16万5000人が会場を訪れ、オリンピックの最高人数15万人を超えました。会場はすごい混雑状態で大変盛り上がっていました。ブラジルは親日家が多く、私が「JAPAN」のTシャツを着ていると「ジャポン、ジャポン」と声をかけ、写真を一緒に撮ってくれと何度も依頼を受けました。

 応援の盛り上がりも凄かったです。南米の陽気なノリで、試合中の歓声が大きく、ハーフタイムも踊り続ける人が沢山いました。一方、視覚障害者スポーツで音を頼りにするボッチャやブラインドサッカーの時は歓声が止まず、「be Quiet」や「silent please」と何度もスタッフが声をかけていましたし、試合にも影響したようです。これらのパラリンピックならではの観戦ルールについては、今後日本でも重要になってくると思います。 パラリンピックと言えば、アクセサビリティではないでしょうか。日本ではバリアフリーという言葉で表現されることが多いかもしれません。アクセサビリティとは、誰もがアクセス可能な、快適な世界を作ることです。WHOの調べでは世界の全人口の10%は障害者です。これに妊婦やベビーカーを押している方、怪我をしている人、高齢者を含めると全人口の20%になると言われています。他人事のレベルから自分のこととして考えていければいいなと思います。

 パラリンピックも競技レベルが向上しており、リオでは約210個の世界記録が出ました。2020年までの4年間、様々なパラスポーツが日本国内でワールドカップ等の試合を開催します。皆様にもいろいろな競技を観戦し、ルールや国内外の選手達を知っていただけたらと思います。そして2020年の東京では、パラリンピック会場に足を運んで生で観て、盛り上げていただければと思います。東京パラリンピックはアスリートだけ、障害者だけではなく、日本国民全員がチームジャパンとして一つになれると思っています。

 「国際パラリンピック委員会」が提唱しているパラリンピックの4つの価値、COURAGE(勇気)、DETERMINATION(決意)、INSPIRATION(鼓舞)、EQUALITY(平等)を、ぜひ2020年の会場で感じていただければと思います。そして、1964年のパラリンピックで障害者の自立や社会参加、社会貢献が考えられるようになったように、2020年以降もレガシーとして様々なものが残っていくように、共生社会の実現に向けても私達も努力していきたいと思いますので、ぜひご協力いただければうれしいです。