卓話


音楽は出会う−映画に、芝居に・・・

2020年12月2日(水)

東京音楽大学名誉教授
作曲家 池辺 晋一郎氏


 今まで音楽の仕事でずっと生きてきました。
 コンサート用の交響曲、ピアノ協奏曲、オペラ等を日本では「純音楽」と呼ぶのですが、僕は使いたくない言葉です。これが純音楽ならば、映画、演劇、テレビやラジオのドラマ等の音楽を「不純だ」と言っているわけで、嫌ですね。不純な方を一般には劇の伴奏という意味で「劇伴」と言っており、これも使いたくありません。僕は「コンサート用音楽」と「付随音楽」あるいは「付帯音楽」と言っています。劇やドラマに付帯する音楽という意味です。

 僕はNHKの大河ドラマを5回やりました。1978年の『黄金の日日』が最初で、『峠の群像』、『独眼竜政宗』、『八代将軍吉宗』、『元禄繚乱』と音楽を書きました。大河ドラマは1年間に約650曲を書きます。毎週45分に編集されたビデオテープを見て、どこに音楽を入れるかをディレクターと打ち合わせし、それが決まるとその箇所の時間を測ります。

 例えば、主人公が涙をポロリと流す、そのアップから音楽が入り、最後はカメラが引いて全体を映し、その部屋から主人公が出て行くまでの時間を計って2分31秒であれば、そのように音楽を書きます。最初はポロリと入るので、ちょっとポンという感じで始まり、最後は部屋から出て行くため、消え入るようにフェイドアウトで終わる。そのように、音楽の入り方から消え方まで打ち合わせをします。2分31秒で済む場合もありますし、次に海岸のシーンにつながるのであれば、海のシーンになる2分31秒目で音楽が転調して変わり、海岸のシーンの最後の3分18秒目で終わるように作曲し、その通りに音楽を録音することを毎週繰り返します。

 そうすると年間に650曲位になります。年間の放映本数としては47、48本の数のドラマになり、数量では言い表しにくいのです。

 それに対して映画と演劇は、1本、2本と数えられます。映画は70〜80本やったと思います。

 映画の世界では名だたる大監督と仕事をすることができ、本当に幸せでした。黒澤明監督とは4本、今村昌平監督とは7本位、今井正監督とも2本、篠田正浩監督と8本位やったと思います。大作が多く、貴重な体験を沢山しました。

 黒澤監督は非常に厳しいことで有名で、僕も色々と面白い経験をしました。黒澤監督は映画に入る時にすべてのカットを自分で絵に描いて、精密なコピーを作ってファイリングし、全スタッフに送ります。これを見れば映画1本を見たのと同じになり、音は聞こえませんが、映像は全部わかる。だから、美術担当の人はその絵の通りに作るのが仕事です。

 音楽はどうか。撮影済みの編集が終わっていないフィルムに、黒澤監督は自分でクラシックの音楽を入れちゃうんです。僕が試写室で見る時はそれが聴こえています。僕が最初につきあったのは『影武者』で、その時はグリーグの『ペール・ギュント』という有名な曲が冒頭のシーンに使われていました。さすがに自分で音楽は作れないので、既成の曲を使って、それを参考にしろというわけです。別のシーンではスッペという作曲家が書いた『軽騎兵序曲』という通俗クラシックが入っていました。

 前任の作曲家たちはこれが嫌で降板した人もいました。でも、僕は「これは打ち合わせ方法としてはいいんじゃないか」と思い、それをどう受け取るかについて考えました。例えば、トランペットが高らかに鳴る曲が入っていれば、このトランペットの感じがほしいのか、それとも、このテンポ感がほしいのか。何が監督の心を捉えてこのクラシック曲を使わせたのかを探ろうとしました。

 度々、監督と食事をしお酒も呑み、雑談する中で探っていきました。そうすると、メロディーラインやテンポではなく、金管楽器がほしいことがなんとなくわかってきます。そこで、僕はメロディーやテンポは似てないけれど、トランペットを使った曲を書きました。ただし、メインのメロディーはピアノで、「こんなメロディーはどうですか」と15種類程作って、監督に聞かせました。

 一種類目を弾くと、監督が「ダメだ」と言うんです。そりゃそうです。僕もどうでもいいのを最初に弾いたのですから。「そろそろいいのが出てこないかな」と思う頃に「これを選んでくれないかな」というのを弾いた。8番目でした。そうすると監督が「お、これいいね」。そして、2番目にいいと思うのを13番目位に弾くと、「これもいいね」。結局、僕の思った通りになり、トランペットでそのメロディーを演奏しました。そうすると監督が「これでいい」と。これが僕の方法でした。僕の探り方の成功だったと今でも思っています。

 黒澤監督は音楽について非常に素晴らしい言葉を沢山残されました。
 「完璧な音楽を書かないでくれ。何か足りない音楽を書いてくれ。音楽が必要なシーンは自分も何か足りない映像を撮っているんだ。何か足りない映像に何か足りない音楽が加わって、そして一緒になって『1』になるんだ。完璧な音楽を書いちゃ困る」。確かにその通りです。コンサートで聴くような音楽を入れると、音楽がものを言い過ぎてしまいます。

 それから、こういうこともありました。
 映画人は自分の作品のことをスラングで「写真」と言います。「僕の昔の写真でね、『酔いどれ天使』ってのがあって。傷心の三船(敏郎)が夜道を歩いてくる。僕はそれを俯瞰で撮った。そこにみすぼらしい電柱が一本立っている。薄暗い白熱電球が一つ点いていて、男を照らす。そこに安っぽいスピーカーが付いていて音楽が流れてくる。明るい『カッコウワルツ』が男の頭に注がれる。そうするとその男は余計惨めになるんだ。惨めで悲しいから悲しい音楽じゃないんだよ。君ねぇ、悲しいシーンに悲しい音楽と思ったら間違いだよ」。名言だと思いました。

 ただし、これを演劇でやると役者が困るんです。例えばステージで惨めな男が惨めに歩いてくる。そこに劇場のスピーカーから「カッコー、カッコー」と流れてきたら演じている役者は困ります。映画やテレビに音楽をつける時はそこにもう役者はいないため音楽は何をやっても役者は影響を受けませんが、生身の役者が動いている時にその音楽では困るのです。

 演劇ではこれを逆手にとって面白いことができます。僕は若い時、シェイクスピア劇に音楽を書きました。『ジュリアス・シーザー』という有名な作品です。ブルータスはシーザーを殺して天下を取りますが、ブルータスもアントニウスという後から来た勢力に段々追われる。芝居の後半はブルータスがアントニウスに戦で敗れていくシーンが描かれます。ブルータスは森の中で部下に剣を渡し、「私の胸を突け」と言います。実際に突くまで3分位の長い独白があり、演出家からそこに音楽を書いてくれと言われました。

 ブルータスは「私の人生は辛いことばかりだった」なんて言ってる。僕は重苦しい音楽を書きました。それを録音して劇団の稽古場で流す。時間を測って正確に音楽を書いたのに、台詞がまだあるのに音楽が終わっちゃった。ブルータス役はベテラン俳優で、僕はまだ20代。「君、もっと長い音楽を書いてくれなきゃ困るじゃないか。台詞が余っちゃってるよ」。演出家も怒りました。

 違うんです。重苦しい音楽が入った途端に、音楽に乗せられて台詞のスピードが遅くなって、台詞が余っちゃったんです。僕は「音楽に影響受けやがってざまあ見ろ」と心の中でほくそ笑みました。俳優は自分が遅くなったことに気づいていないんです。

 僕は演劇の音楽を約500本も書いてきましたから、同じような体験を何度もしました。逆もありました。早い音楽を書くと台詞のスピードが早くなっちゃうんです。俳優には悪いけれど、作曲した人間としては自在に乗せることができて快感です。でも、この手は映画には使えません。これが演劇と映画の音楽の違うところです。

 では、テレビはどうか。テレビは、茶の間やリビングルームで、あるいはお母さんが台所で大根を刻みながら斜めに見るかもしれない。例えばサスペンスドラマで犯行に使われた鍵束が犯人と思われる男のベルトにぶら下がり、その鍵束にカメラがズームインする。そこに音楽を、例えば、ジャラーンと書くと、台所で大根を刻んでいるお母さんが「何かしら」とテレビを見る。これをアテンションの音楽と言い、音楽は解説になるのです。それは集中して見ているとは限らない人を少しでも惹きつけるための手法で、それが必要になるのがテレビの世界です。これを大きなスクリーンと対峙して見る映画でやったら余計なお節介になります。

 映画、演劇、テレビ、それぞれの世界で音楽の種類も変わってきます。ちょっとした差でそれぞれのノウハウが変わります。これがいいと思う方法がメディアによって変わり、それぞれが生きてきて、使える手法が面白くなる。それを発見していくのが我々の世界の一つの筋道だと僕は思っています。

 何かに付帯する音楽をやれたからこそ他の世界とのつきあいが起き、その中で生まれる面白さがあることを認識しました。皆様もこうしたノウハウをどこかで応用することをお考えになると面白いかもしれません。


  ※2020年12月2日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。