卓話


生きてこそ光り輝く 

9月1日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

将棋女流棋士
 石橋 幸緒 氏 

第4022回例会
   
   
  私は,昭和55年に,未熟児として生まれました。体重は1500〜600グラムほどの,普通の赤ちゃんの半分ぐらいだったそうです。しかも内蔵の方に重い病気を患っておりました。腸閉塞という病気です。その病気は今も治っておりません。

 母は,私を3番目の子どもとして産みました。帝王切開で産んだそうです。新生児室の私に会いに行こうとしましたら,主治医の先生から,いきなり,「残念ながら,おたくのお子さんは,この病院にいません。清瀬の都立清瀬小児病院という,難病を持った子どもたちばかり集まった大きい病院に搬送したばかりだから…」と言われたそうです。
 そうして「残念だけれども,これから後3日ぐらいが山場です。悪い知らせがくるかもしれないが…」と言われたそうです。
 それくらい,私の病気は重かったようですが,本人は,目を開けた場所が病院の白い天井と白い自分のベッドと,白衣のお医者さんと看護師という,真っ白な世界以外には記憶には残っておりません。

 生まれた時から12年間ほど,そこで過ごしましたので幼少期には自宅,家庭というものをほとんど知らずに過ごしてまいりました。
 今でこそ,母は常に,どんな所ででも,将棋を指すときにも,どんなときにも24時間,私専属の看護師としてマネージャーとして,もちろん,ちょっとうるさい母親としてもつき添ってくれますが,私が生まれた時は,母や父のことは何も分かりませんでした。
 動物の刷り込み現象ということをいいますが,私にとって,看護師さんとお医者さんが自分の両親のような存在でありました。

 毎日,午後2時になると安静時間という休憩が終わって面会時間が始まります。その時間になると,ラジオがはいったようにまくし立てるおばさんが出て来ます。その人が自分の母親だということもなかなか分かりませんから,毎日うるさいなあと思っておりましたし,4歳まで,1回も,親にさえも,だっこされたりベッドから下ろしてもらったりしたことはありませんでした。

 ずっとベッドの上で,常に点滴から栄養をもらって生きておりました。抑制された状態から解かれて,初めてベッドから下ろしてもらったと同時ぐらいに,生まれて初めて食べ物を口にしました。それまでは腸の病気ですので,生まれてからずっと禁食という,あまりありがたくないプラカードをさげられて,一滴のお水も,何もかも食べたり飲んだりすることはありませんでした。

 初めて食べたものは,今ものんでいる整腸剤のようなお薬でした。その薬は,大人向けの苦い薬らしいのですが,それがとてもおいしく感じたというので,やっぱりだいぶ人と変わっているなと,自分でも思います。

 そんな思い出もありながら,いろんな人の助けをお借りすることになりまして,これまでに結局3回の開腹手術をしました。これ以上は限界だそうで,後は全部点滴で処置をしました。開腹手術の時には,身内に血液型が0型の者がおりませんので,母は,近くの駅のホームに立って,行き過ぎる人1人ひとりに「うちの子に血液をくれませんか」と食いついてお願いしたそうです。
 
お陰さまで,3時間で30名ほどの方々から0型の血液をいただきました。全く見ず知らずの方からたくさんの輸血をいただいて,こうして今,生かしていただくことができました。
物心つく前から,「あんたはいろんな人のお陰で,こうして生かしてもらっているのだから,将来,どんな形ででも,人様になにかしらの恩を返していきなさい」と教えられて育ちました。

 小学校は,養護学校に入ることになりました。一般的には肢体不自由といわれる障害児のための学校でした。生徒数が150人ほど,小中高が一貫教育になっており,先生の数も150人くらい。その他,訓練の先生,スクールバスの運転手さんなどを含めますと,大人が子どもの倍ぐらいという学校でした。いつでもどこでも,だれかに見守ってもらえるような,とても暖かい学校でした。
 授業は児童1人ひとりのレベルに応じて進めてもらいました。障害の程度や,得手不得手よって,さまざまな訓練や練習が行われて,その子に残された部分を使って,能力が伸びるような教育がなされました。

 小学3年生で,初めて将棋を覚えました。母は,将棋は体を動かさなくてもできることだからいいのではないか。将棋は一生を通じて持てる趣味だと思ったそうです。将棋はルールを覚えるのに時間がかかりますし,覚えただけでは,なかなか勝つことができません。私の通った将棋教室では,きっちりと将棋を覚えるまでは指してはいけないと言われました。

 そんななかでも養護学校が大きくかかわってきました。私の担任の先生が将棋の指せる先生だったのです。アマチュアの四段か五段の腕前でした。その先生に毎日,駒落ちのハンデをつけてもらって,お昼休みに,放課後に,授業の合間にと,小学校4年から6年の間,学校に将棋を指しにいっているという感じでした。帰ってきても家で将棋を指して,土日には将棋教室に行く。調子が悪くなってたまに病院に帰ると,将棋を指す先生を病院が探して,主治医につけてくださいました。このように常に将棋が指せる環境があるということが,ありがたいことでした。

 幼少時代は,食べることができなかった時代が長かったもので,新しいものおいしいものを食べてみたいということだけが,生きがいでしたが,将棋を覚えてからは,食べることすら忘れてしまうくらい将棋に熱中しました。将棋教室で朝の10時ぐらいから夜の9時ごろまで30局くらい指した覚えがあります。

 小学5年生の誕生日,1月25日に,両親と将棋の先生に,私はプロ棋士になりたいと宣言しました。それからの勉強はプロになるための勉強に変わりましたけれども,中学1年の10月に,女流プロ棋士になることができました。将棋を覚えてから7年間,入院することがなくなりました。好きなことを見つけるというのは体調までも大きく変えてしまうのだと思います。お陰さまで,早や11年が過ぎようとしております。

 一般の社会人ですと,23歳というのは新入社員ですが,将棋界では,年齢はあまり関係がありません。しかし,最近は,あまり若手とは呼ばれなくなってきまして,ベテランなんだから早く結果を出しなさいなど言われることが続いております。

 このように将棋が好きになれたのは,教室で高齢のおじ様方にたくさん将棋を教えていただいたからです。将棋を指しているときだけ,1対1で向き合ってくだいました。6年生になっても,身長100センチ,体重15〜6キロという,幼稚園の年中か年長にしか見えない小さい私だったのですが,将棋を指しはじめると,相手のおじ様は私を一人前に扱って一生懸命考えてくださいました。

 大人が子どもを相手にしてくれるというおもしろさと将棋のおもしろさを,いろんな方から教えていただいたからこそ,それが何よりの生きがいとなって,今こうして,自分の好きな道で仕事ができるようになったと,つくづく感謝しております。

 女流棋士という制度は,できてから30年です。女流プロ棋士は50人になりまして,まだ始まったばかりという世界ですけれども,これからは,週1回の対局で,体調を整えて盤の前に座ることが,人と違う私にとっての課題になってまいります。

 将棋は,人と人が指すことが「盤上での会話」であるといわれます。私は,小さい子,特に女の子に将棋を覚えてもらって,少しでも女流の方が発展していけるようにしていきたいと思っております。

 私がいちばん好きな言葉に「万物生きて光り輝く」という言葉があります。この世のすべての人には,必ず何かしらの特技や才能や隠された能力がある。それを見つけることによって,その人が光り輝くのだという意味の言葉です。
 
私が生まれてきて,将棋を指そうということが決まって,プロを目指して,プロになってからも,ただ毎日,明日は病気は大丈夫だろうか,対局中に何事もなければいいなという思いで過ごしてきました。そして体調と相談しながら,書道と将棋という2つだけのことを,好きで続けてきただけでございます。そして,長く続けることで生きている喜びを感じるようになりました。

 どんな人にも,いろいろとやってみて,その中から見つけることができる,得意なことが必ずあります。得意なことをやり続けて,生きる喜びを感じることで,自分自身を輝かせることができると思います。それが「万物生きて光り輝く」の心だと思っています。