卓話


イニシエイションスピーチ

2008年7月30日(水)の例会の卓話です。

蒲野宏之君
平井正修君

太平の夢を覚ました小泉司法改革

蒲野綜合法律事務所
代表弁護士 蒲野宏之君
                               
 近時の日弁連会長の「法曹人口の増員についてはその質の維持の為にペースダウンを求める」との発言を契機に時事問題となった法曹人口問題について,お話させて頂きます。
 
 私は大学院卒業後,最初に就職した外務省で北米局北米第一課長補佐を最後に退官し、司法研修所を経て1981年に弁護士登録をした直後に渡米し、アメリカの弁護士として首都ワシントンDCで1988年年末まで8年ほど大手法律事務所で働きました。

 当時のワシントンには3万人ほどの弁護士がおり石を投げれば弁護士の頭に当たると言われるほどでした。ワシントンの名門校であるジョージタウン大学ロースクールを卒業しても卒業時に就職が決まるのは半分位にすぎませんでした。

 翻って我が国の法曹界の現状を見てみますと最近では新聞に弁護士登録をしても働く場所がなく先輩弁護士の軒先を借りて独立する「ノキ弁」などという新語が見られます。

 これは2002年3月に小泉内閣の下で閣議決定された裁判員制度の導入、法テラスの設置、法科大学院の新設を3本柱とする「司法制度改革推進計画」に起因します。司法改革の担い手を確保するため2010年頃には司法試験合格者を3,000名に増員するとの方針により、毎年急ピッチで合格者数を増やしてきたからです。現に2007年の司法試験合格者は2,099名となり,5年前の2002年の1,183名に比べ倍増となっています。

 このノキ弁現象にショックを受けたのが日弁連です。更にこのノキ弁現象にくわえ司法研修所終了試験の大量不合格者問題が発生しました。私どものころには司法研修所の終了試験の不合格者は3、4名であったのが、近時は100名を超えてしまったのです。その原因として法科大学院の乱立に伴いその教育が十分なレベルに達していないとの指摘があります。他方それを補うべき新規弁護士登録者に対する先輩からの実務指導の機会がノキ弁では欠けてしまう事になります。法曹の質論にはこのような背景があります。

 かかる弁護士数の急増の中で、今年2月に行われた日弁連会長選挙で従来の司法改革路線を唱える宮崎候補が他には有力な対立候補もなく圧勝とみなされていたのが、司法改革に反対する候補者が43%の票を集め、司法改革推進派に大きな衝撃を与えました。

そのため今回日弁連は「増員方針に代わりはないが増加についてのペースダウンを求める」との方針を打ち出したのです。このペースで増えれば司法改革審議会の目標である弁護士数5万人の達成のみならず6万人、7万人と歯止めなく増員されていくとの危機感が背後にあります。

私はこの問題の解答は社会が法曹に何を求め期待するかにかかっていると考えています。一方で、アメリカのように司法試験は易しくして志望者がいる限り弁護士数に歯止めをかけずに、ユーザーがその質についてはリスクを取るという風に割り切る考え方です。
 
 他方は、一定レベルの質を維持していくためには社会のニーズと両にらみしながら増員のペースを考えていくとの考え方です。社会全体の人的資源の効率的配分という観点からは後者の考え方かと思いますが、実際には社会のニーズといっても潜在的需要も含めその把握は簡単ではなく、法曹関係者の権益に振り回されがちなのも事実といえます。特に当初目標の5万人に達しておらず弁護士過疎問題も解決していない中でペースダウン論をいうのは業界エゴではないかというのが新聞の論調です。

 私は、日本社会に法の支配が行き届くよう司法インフラを充実するとの司法改革の方針は正しく、その実現のため法曹の増員をしていく事は不可欠と考えています。他方、その増員による副作用によって社会的ロスが生じるような事態はできるだけ回避すべきであり、そのために法曹界の提言は外部の意見にも十分耳を傾けた客観性のあるものでなければなりません。

落語の神様三遊亭円朝と幽霊

(宗)全生庵
住職 平井正修君
           
 全生庵は臨済宗の寺ですが、毎年八月になりますと、落語と幽霊を目的とする方々がお見えになり、一般の禅寺とはちょっと違った趣に包まれます。

 八月の一ヶ月間、全生庵所蔵の故三遊亭円朝遺愛の幽霊画コレクションの展示を行うとともに、その期間中に奉納落語会も開かれたりするからなのですが、全生庵にこのような幽霊画のコレクションが揃うのは、まさに三遊亭円朝の墓があるからであり、円朝没後供養のために寄贈されたことによります。

 三遊亭円朝は幕末から明治にかけて活躍した落語家で、「江戸落語中興の祖」「落語の神様」「大円朝」「大師匠」と評される名人中の名人ですが、昨今の「落語ブーム」の故か、ここにきてクローズアップされる機会が増えてきています。

 名人と呼ばれる落語家は何時の時代にも存在し、決して少ない数ではありませんが、三遊亭円朝ただ一人が「名人中の名人」とされています。肉声や映像が残っていないことが却って想像力を刺激し、その名声に拍車をかけているという面はあるかもしれませんが、その名が本質的に没後百年を過ぎた今日まで輝きを失わないのは、噺の作り手としてのすばらしさによるものだと思われます。

 春陽堂の世界文庫による「円朝全集」では全十三巻、角川書店の「三遊亭円朝全集」では全七巻に及ぶほど、円朝は多くの噺を作り、今なお落語はもとより、講談・歌舞伎でも演じられ、昨年には円朝の「真景累ヶ淵」を原作にした映画「怪談」が公開されてもいます。

 その三遊亭円朝は、一八三九(天保十)年に、江戸の湯島に生まれています。父親が芸人だった縁で、数えの七歳で初高座、場末の寄席ではありますが、十七歳で真を打つなど、芸人の人生を邁進し、二十歳になるころには一流の寄席で真を打つようになります。

 そして、そのころから円朝は、大きな板に背景を描いた舞台セットを配し、太鼓や笛といった「鳴り物」を使って芝居のような雰囲気を演出する、「鳴り物入り道具噺」というものを始めます。これで円朝は一躍江戸中の人気をさらうのですが、それがきっかけで師の円生との間に軋轢が生じます。

 あるとき、自ら真をとることになった円朝は師にスケ(援助出演)を頼むのですが、中入り前に登場することになった円生は、円朝が用意した道具での噺を先に演じてしまいます。円朝は別の噺に変更しますが、これが初日にとどまらず、連日続きます。そこで円朝は、師匠の知らない噺をすれば先に演じられることもないと考えて、自分で新しい噺を作ることにします。

 これをきっかけに、以後円朝は次々と新作を発表していくことになり,「文七元結」「芝浜」「塩原多助」「真景累ヶ淵」「怪談牡丹燈籠」「怪談乳房榎」などが生み出されていきます。

 明治年間には円朝の噺は速記本としても出版され、新聞にも連載されるようになり、寄席に行けない人も円朝の噺を知るようになって、円朝はいよいよビッグネームとなっていきますが、このような動向は当時の言文一致運動にも少なからず影響を与えたらしく、二葉亭四迷が文章の書き方を坪内逍遥に相談したところ、「円朝の落語のように書いてみてはどうか」と言われ、「浮雲」が生まれたとさえ言われています。

 そんな円朝が幽霊画を蒐集していたのは芸のこやしのためだったようですが、円朝が集めた作品だけでなく、幽霊画というものには幽霊の姿形がしっかり描かれています。
そこまで具体的に描かれてもいる幽霊ですが、果たしてその存在を信じてよいのでしょうか。仏教的には、いるともいないとも言いません。いたらいたでよく、いなければいなくて構わない、といったところです。

 幽霊は同じ場所にいたからといって皆に見えるものではなく、見る人によってその姿も変わります。畢竟、人間の「思い」や「念」の産物であり、この世に未練を残した強い「思い」が幽霊となって現れる、私たち自身のやましい「思い」の反映として幽霊を見る、ということなのだと思います。