卓話


黒海波高し−ウクライナとロシア

2009年2月18日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

作新学院大学 特任教授
ジャーナリスト  小林 和男 氏  

 ロシアという国を,新聞の記事の断片的報道から理解するというのは,正確な意味での理解にはなりません。ロシアは隣りの重要な国であり途方もなく面白い国です。

 まず,9年前に登場した,あのKGB出身の眼光鋭いプーチン大統領の人気が高いのは何故かということからお話しします。

 在任中の彼の支持率は60%を下がったことはありません。尻上がりに上がって,去年,大統領の座を去る時には,80数%の支持率でした。先月の16日から19日にかけて,ロシアでの世論調査では,プーチン首相は83%,そして,メドヴェージェフ大統領は74%の高い支持率でした。

 ロシアの国民は,エリツィン氏の前の時代に経済的,政治的大混乱で塗炭の苦しみを味わいました。その時に登場したのがプーチン氏でした。彼が,何故人気があるか。ひとえに,暮らしをよくしたからです。

 実質賃金は,プーチン氏が登場してから8年間,毎年,10数%から20%を越える伸びを示しました。GDPは,毎年7%〜8%の伸び。そして,2000年の外貨準備金は,たった100億ドルでしたが,彼が辞める2008年には,5600億ドルになっていました。

 国民の暮らしが豊かになり,そのうえ,国の財政も豊かになりました。これはやはり,プーチン氏はいい大統領だったと言わざるを得ません。

 プーチン氏の「やり方」を継承すると言って登場したのがメドヴェージェフ氏です。大統領に就任した時は42歳の若さです。メドヴェージェフ氏は「プーチン路線を引き継ぎ,ロシア国民の暮らしを守る」というのがコンセプトです。そこで,ロシアの方向,日本との関係,世界との関係をみていくうえで,プーチン氏の「手法,手段」を分析することが,これからのロシアの行方をみる,最も簡単な方法だと思います。

 プーチン氏の手法について,特徴的なことが二つあると思います。一つは,国際情勢を実に巧みに利用して,それを国益に使うことです。日本は,残念ながら,国際情勢を国益にうまく使うということには長けていません。反して,プーチン氏は国際情勢を実にうまく利用します。

 彼は就任2年目の2002年,ドイツに乗り込みました。シュレーダー首相との会談のテーマは,ロシアの抱えている債務の返済交渉です。当時,ロシアは世界中に借金を抱えていました。中でも最大の債務が対ドイツ,65億ドルの債務でした。4月9日彼は一日の交渉で辣腕をふるいました。なんと65億ドルの債務を3億5千万ドルに減額させました。

 当時,ブッシュ大統領は何がなんでも,イラクを攻撃する方向に進んでいました。仏・独・ロの各国は猛烈に反対しました。中東情勢が不安定になると原油の安定的供給に支障を来すからです。なおかつ,原油の価格が高騰するというのが反対の理由です。

 そんな国際情勢の時に,プーチン氏は,ロシアは,どんな事態になっても,ドイツに対して,石油と天然ガスの安定的供給を約束をしたうえで交渉に入ったと思われます。

 この話には,長い目でみた布石が存在します。それがもう一つの特徴です。

 ロシアは今年の1月にヨーロッパ向けの天然ガス輸出を2週間にわたって止めたことがあります。このガスパイプラインは,ウクライナを経由して,1970年代に建設されて以来、2006年の1月1日に一日だけ止まったことがありますが,それ以外は全くコマーシャルベースで運営されていました。

 ところが,ウクライナのユーシェンコ大統領がNATOに加盟し,EUにも参加し,アメリカに近づく反ロ的な政策をとったために,ロシアは対抗策として天然ガスの値段を西欧なみの国際市場価格に上げるように要求しました。ウクライナはとても払えない。そこで,供給が止まったというわけです。

 ヨーロッパの天然ガス需要の4分の1をロシア一国が供給していますが,その80%がウクライナ経由のパイプラインでヨーロッパに運ばれています。これがロシアにとって弱みです。

 ウクライナが栓をひねれば,ヨーロッパへのパイプが止まってしまいます。今まではそのような危惧はなかったのですが,反ロシア的な政権ができたために,その恐れが出てきました。

 この事態に対しても,ロシアは実に見事に対抗策を立てています。2005年に,ロシアとドイツが会社を作りました。サンクトペテルブルグの北からバルト海の海底にパイプラインを敷設して,ドイツのグライフェスワルトまでの1200キロメートルを直接運び込むというプロジェクトです。会社の名前はノルドストリーム(北の流れ)といいます。外国を経由しないで公海を通って,ロシアの天然ガスをドイツに送り込む計画です。

 パイプラインの計画はこれだけではありません。中央アジアの天然ガスをロシアの領土を使って黒海に持って来ます。黒海から海底パイプラインでブルガリアにもっていく。ブルガリアから西は,ギリシア,イタリア,そしてブルガリアからセルビア,ハンガリーを経て,ヨーロッパに運び込むプロジェクトを着々と進めています。

 そのプロジェクトに参加するのは,独,仏,伊の三国です。特にイタリアはこのロシアの計画に力を入れています。

 ウクライナにとっては,「北の流れ」は自分の所を回避して流れる。南はサウスストリーム(南の流れ)が敷設されればエネルギーに対する影響力は落ちるわけですが,事はそう簡単ではありません。

 ソマリアでの海賊の出没で分かるように,エネルギーは海賊の狙うところです。海賊からの被害を守るために,ロシアには黒海艦隊があります。その艦隊司令部がウクライナのクリミア半島の先にあるセヴァストポリという町にあります。かつてのソ連時代には同じ国の中だったのですが,1991年にウクライナが独立したために,外国の港にロシアの艦隊司令部があるという変則が生じました。

 今は,1994年に租借契約が結ばれて,ロシアが租借しているという状態です。その契約期限が2017年に迫っています。ウクライナのユーシェンコ大統領は,租借は延長しないという発想です。ところがチモシェンコ女性首相は親ロ派です。ロシアも経済危機にあるウクライナに50億の融資を持ちかけています。

 2010年に大統領選挙が行われますが,今の情勢ではチモシェンコ氏の当選が有力です。彼女が大統領になれば租借問題も起きないでしょう。

 しかし実はクリミア半島の住民の大部分がロシア人なのです。既に,ロシアに帰属したいという民族運動が起こっています。このことも事が簡単に運ばない理由です。

 グルジアの西の端にアブハジアがあります。面積8千平方キロ程の小さな所ですが,1992年にグルジアからの独立を宣言しアブハジア共和国となりました。グルジアは独立を認めていませんが,ロシアは認めました。ロシアのほかベラルーシと中米グアテマラだけです。

 認めても何もいいことはありません。世界各国から非難も受けました。しかし,将来,この地域は中央アジアとカスピ海のエネルギーをヨーロッパに運ぶ道筋の要になります。承認したのは,将来のエネルギーの道を確保するための方策だと思います。

 このように,プーチン氏のやり方をみるときにはあまり短い目でみてはいけないということです。彼が,長い目でみて,相手を利用して事を運ぶという手法をどこで学んだか。 プーチン氏に会った時の話をします。

 不良で喧嘩ばかりしていた彼は,力をつけるために13歳の時に柔道の門を叩きました。柔道の先生は「柔道は礼だ」と言ったそうです。「意味は分からなかったけれど,私は柔道と出会って助かった」と言いました。

 大統領公邸の一隅にある道場に案内されました。そこには加納治五郎氏の等身大のブロンズ像がありました。彼は道場に入る時に姿勢を正してその胸像に深々と頭を下げました。彼は「時に相手の力を利用する。危機に対処してどう耐えるか。これらのことは,すべて柔道から学んだ。もし私が13歳の悪ガキの時に柔道と出会っていなかったら,私はどうなっていたか分からない」そして「柔道のすばらしいところは,自分を鍛練し,その結果が周囲にいい影響を及ぼすことだ。柔道の一番のすばらしさは『修身』だ」。彼はシュウシンと日本語で言いました。さらに「修身とは身を修めること,自分を磨くことだ」と。

 彼が来日した時,講道館から名誉六段の段位と,表が黒,裏が赤の帯を貰いました。どうぞ帯をお着けくださいと申しあげたら,「私は,この帯に値しないことを私自身が分かっている。私が身を修め,鍛練をして,この黒と赤の帯にふさわしいということを自覚したら,着けることにします」と挨拶して講道館の人たちを感激させました。

 彼は「柔道は日本の哲学だ」とも言っています。彼が柔道から学んだ生き方で日本と向かい合っているのだということを知ると,私のプーチン氏に対する印象も少し変わったという思いに至っております。プーチンという政治家を判断する,新聞報道だけでは分からない,彼の業績と内面をお話ししました。