卓話


日本における武士の生き方と葉隠の位置 

2007年5月30日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

アーバントリー法律事務所 弁護士
明治大学非常勤講師 
嘉村 孝 氏

 「武士道」という言葉が本格的に使われた最初は,1600年代初期の『甲陽軍鑑』といわれています。それまでは「武者の習」とか「弓矢とる道」といった言葉であったようです。歌道という言葉なども寛永年間の将軍家光のころにできたといわれていますから,そのころ,いろいろな「道」ができたのかもしれません。

 1716年成立の『葉隱』という本で有名なのは,「武士道というは死ぬことと見つけたり」という言葉ですが,山本常朝はこの言葉の後に,「図に当らず犬死にしてもかまわぬ。・・・死ぬのは恥などというのは『上方風の打上りたる武道』なるべし」と言っています。そうすると,山本常朝が好きではない武士道というのが,もう一つあるわけです。そこで,もし二つの武士の道があるのならば,そのどちらをこれからの日本に生かしていったらよいのかというのが,本日のテーマです。

 まず,日本にも,古来,文官と武官とがありました。「もののふ」という言葉の語源だという説がある物部氏がいたようにです。それ以来の律令体制下の武人の倫理として,私が取りあげたいのは「承詔必謹」という言葉です。

 これは,604年に聖徳太子が作られたといわれている憲法十七条の第三条の言葉で,『詔を承りては必ず謹め』という言葉です。当時の天皇は,明治憲法的にいえば,いわゆる統治権の総攬者です。総攬者たる君主の詔は二義を許さずそのまま施行しなければならない。つまり一切の解釈なく,これを行うのが文官かつ武官のなすべきことというわけです。

 例えば司法権についていえば,詔つまり天皇の命令(律令)は非常に細かく,絶対的法定刑主義といわれるもので,罪に対する刑罰は,例えば,人を殺したら死刑ですが,絞首刑,斬首刑など刑罰執行の方法まで規定されています。これに違反した判決を下した裁判官は「違勅罪」という重罪になります。

 このような考え方は日本や中国だけではなく,かのユスティニアヌス帝が作ったローマ法大全も同じであって,彼は裁判官が解釈することを許さなかったとのことです。

 なんだか融通が利かない話のようですが,この「承詔必謹」は,日本の歴史の中ではずっと命脈を保ってきました。

 例えば江戸時代の末,井伊直弼が桜田門で殺されましたが,彼は天皇の勅許を得ないで日米修好通商条約をはじめとする諸外国との条約を結んだため,それが違勅であるということで水戸の浪士に殺されたわけです。

 あるいは60数年前の日本の敗戦において,中国大陸では,まだ戦おうという兵士がたくさんおりました。しかし「承詔必謹」である。天皇は戦争を終わらせる詔を発した。それを体している軍人は鉾を収めなければならないということで引き上げたわけです。

 こういう例からも「承詔必謹」の倫理は地下水脈のように存在してきたと,私は思います。

 ただし,このような観念は,四角四面で融通が利きません。ですから,後に述べるとおり江戸時代になって再び中国法が入ってきた時に,当時の裁判官大岡越前守は,人殺しだが死刑はかわいそうだというようなケースの場合,殺した相手は人ではない,鬼であったとして,死刑を科さずに救ったという話を,末広厳太郎先生が『嘘の効用』の中に書いています。

 しかるに中世になると,随分融通が利いてきます。ここで中世とは,平安末から江戸初期までを含めたいと思いますが,その始まりの鎌倉時代である1232年に,律令の上に道理を据える「御成敗式目」が北条泰時によって制定されました。つまり形式を実質的な道理で修正するわけで,中世武士の重要なキーワードは「実」という言葉だろうと思います。

 葉隱の武将である鍋島直茂は,ある時,本庄社(佐賀市)という神社に息子の勝茂をつれてお参りをしました。息子に,お前は神様になにを祈ったのかと尋ねたところ,勝茂が「武運長久,子孫繁栄,国家安全」のほかにはないでしょうと答えると,直茂は,左様なことでなく「実の心起こり候ように御守り候え」と祈ったというのです。

 また,福井の一乗谷にいた朝倉孝景の『十七箇条』の冒頭には「朝倉の家には宿老を定むべからず」とあります。つまり固定的な家老を置くなというものです。さらに,「名作の刀脇差,さのみ好まれまじく候」と,例えば100疋(お金の単位)の槍を百本持っていたほうが万疋の太刀1本持っているよりも余程よくて,一方の敵を防ぐことができるともいっております。つまり,なまくらの槍百本のほうが名刀1本より余程ましだというリアリズムです。

 更に,「実」を別の角度から考えてみます。例えば「切腹」です。

 鎌倉の末,吉野の蔵王堂で,村上義光は,攻めてきた北条方に「自分は後醍醐天皇の息子・護良親王である」と言って切腹し,その腸をつかみ出して敵に投げ付けるという挙に出ます。そして,みんなが驚いている間に本物の護良親王は虎口を脱して落ち延びたという有名な話があります。つまり切腹が極めて戦略的,戦術的に行われたと私は思うのです。

葉隱の時代になると,そこにも切腹はたくさん出てきますが,戦国時代が対象なので,何かの責任をとって切腹したというケースはゼロといってもよいくらいです。逆にポカをした家来を殿様が許すわけです。

しかしそれだけではけじめがつきませんが,実は,主君と家来との間には極めて濃厚な関係がありましたから,殿様が死んだ時に,家来は追い腹を切ります。これが,江戸初期に流行っていた葉隠などの腹の切り方です。

 そうしているところ,いよいよ近世に入り,1644年,お隣の中国では,明という国が滅びました。そして,数万人ともいわれる人々が日本にやって来ました。当然,明の文化が入ってきます。しかして明の文化は,「公候伯子男」の身分,「士農工商」の階層。そして儒教です。日本でも吉宗が,室鳩巣に六諭衍義を書かせて寺子屋でそれを教えさせたりします。武士の道も士農工商のそれぞれの分を守って,責任をとる切腹を重要な要素とする「武士道」が出来上がってきました。

 ちなみに,1742年に吉宗が作らせたのが「公事方御定書」で,再び絶対的法定刑主義に戻った中国的法律です。

 そういった社会の先触れとなった重要な人として水戸光圀と,彼より年長の会津の保科正之が挙げられます。

 彼らは,皇帝が自殺して明朝が滅んだ中国とは反対に,古文孝経の「君,君たらずとも,臣,臣たらざるべからず」という考え方こそ,日本の国柄に合った考え方だと唱えます。

 なお,水戸では,「君」は天皇です。ですから,勅許を得ないで条約を結んだ井伊直弼は違勅の罪で殺されました。一方,戊辰戦争で敗戦した松平容保は,会津における「君」ですから,萱野権兵衛というりっぱな家老が,臣として君を十分サポートしなかったとして切腹し,松平家の万世一系は続くという構図になります。

 山鹿素行はこういう考えを「士道」と名付けていますが,1716年の成立とはいえ葉隠は,そんな中国の話や理屈とは無縁で,極めて地方的だし,偏狭です。だから士道に対し,「上方風の打上りたる武道」というのです。しかし,葉隠にも汲むべきところがあると,私は思います。

 なぜなら,水戸光圀たちの作った武士道は,清との国際的緊張から生まれた極めて国粋的なもので,実は中国のものを内容としながら,日本独自をとなえているおかしなものです。しかもこの武士道は,士農工商が前提で,平等な慈悲ではなく上からの撫民という発想でもあります。

 一方,中世約500年間のキーワードは「一味同心」です。神仏の前で殿様も家来も同じ水を飲んで盟約をして武力集団をつくるというもので,これは撫でられる国民像とは異なります。

 こうして,律令による専制的な政治機構における武士の道。中世の「実」を中心に据えて「道理」を重視した法の支配を目指す一味同心の世界。公事方御定書という絶対的法定刑主義を前提とした形式主義。以上3段階の武士の生き方を前提にして,これらを現代にどう取り入れたらよいか。

 ところで,この帝国ホテルの前にある日比谷公会堂は,昭和4年に建てられました。昭和3年の普通選挙,陪審法の施行に合わせたものです。その中にある東京市制調査会が昭和3年に出版した『公民教育研究』のはしがきには「日本国民は残念ながら個人の独立自尊,社会の共存等において,かのアングロサクソンの域に達していない」と述べられていますが,一方,日本国民がもともとそうだったのではなくて「江戸時代において衰滅させられたのであって本邦人がこれに乏しいのではない」とも述べられています。だから「自分たちが責任をもって自立した国民になるために普通選挙や陪審法を前にして勉強しよう。撫でられる国民から自立した国民になろうということで,あの日比谷公会堂が存在するわけです。

 ですから私は,現在の日本においては,武士の生き方の中で,中世一味同心の,そういう面を考えるべきなのであって,江戸中期以降の,お行儀をよくしようとか,誰かの言うことをよく聞きましょうだけでは駄目だと思います。

 いずれにしても武士道というのは一つしかないというイメージを改めていただけるきっかけにしていただければ幸いです。