卓話


友好の配電盤
日本に来て、見たこと、感じたこと 

2006年10月4日(水)の例会の卓話です。

小野茂夫君、 
米山奨学生 グエンさん 

米山月間卓話
『友好の配電盤』

地区米山奨学委員会委員
(株)ニコン 特別顧問
     小野茂夫君

 地区米山委員会の仕事は、地区に割り当てられた奨学生の選考、オリエンテーション、終了式など種々ありますが、なかでも重要なのは6月に招集される分区ごとの米山委員長会議です。ここで地区委員長から寄付額目標が示され、その目標を達成する方策を各クラブの米山委員長が話し合います。

 いま、どこのクラブも会員減少に悩んでいて、存続そのものが問題のところもありますから、寄付が集まらないなら奨学生数を減らせばよいとか、反日デモをやるような国からの留学生には奨学金を出す必要はないというような意見も時々出ます。先日も中央分区の委員長会議で同じような意見が出ましたので、わたくしは東京クラブでの経験をもとにつぎのような話をしました。当クラブで世話をした奨学生は卒業後両国の架け橋として活躍していること、米山奨学事業は永年に亘って継続してきたので一時的な政治情勢に惑わされるべきではないということです。

 現在、日中両国の架け橋として活躍している卒業生は、張青東くんと尹松さんです。二人とも中国からの留学生で、張くんは東京大学大学院教育研究科で勉強し、卒業後も日本に留まり公文教育研究会に就職しました。最近は公文式を中国広州で広めるために、尼崎と広州の間を往き来していましたが、このほど公文広州(株)の社長として赴任しました。

 一方の尹さんは、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科で日本語を研究し学位を取得しました。卒業後は上海にある華東師範大学で助教授として日本語を教えています。今年の5月から9月まで国際交流基金の招きで日本に滞在し、5月下旬に当クラブ例会にゲストとして出席しました。その時の話では、華東師範大学に在学中の約2万人の学生のうち、日本語を専門に勉強している学生をはじめ、なんらかのかたちで日本語を勉強している学生は全体の約半分、すなわち1万人くらいはいるとのことでした。

 このように、東京ロータリークラブが世話をした張くん、尹さんともに、日本で勉強したことを活かして、将に両国の架け橋といえる仕事で活躍していることを皆さんにお知らせできよかったです。

 話は変わりますが、さる6月14日にここ帝国ホテルで、東京理科大学の創立125周年を祝う記念式典が行われました。学長挨拶、来賓祝辞を拝聴しているうちに、司馬遼太郎著『この国のかたち』のなかの「文明の配電盤」を思い出しました。明治初年、西洋文明受容期の日本は一個の内燃機関だったといいます。自動車などの内燃機関には配電盤があって、それがシリンダのそれぞれのプラグに電気を配ることによって一定の順序で爆発させます。その配電盤に当たるものが東京大学で、そこでの学問を電流とすれば、その電流を運ぶ役目を、はじめはお雇い外国人が果たしました。やがて外国留学から帰ってきた日本人学者たちと替わりましたが、教授たちは外国で得た電流を学生たちに配るだけでなく、周りの私学にも漏電するようにして新文明をこぼしたといいます。その例として、東京物理学校(いまの東京理科大学)設立の話が出てきます。

 明治のはじめに東京大学理工系を出た人たちには、国家のカネで学問を授かったということで国恩を感ずる人が多く、特に明治12年前後の卒業生21人が同盟を結び、報恩のために一私学を興そうと申し合わせました。校舎は間借り、資金はすべて卒業生たちの醵金、教授たちは夜になると無料で教えにいきました。さらに実験用機械などは夕方になると東京大学から物理学校へ大学の使丁が運搬するというようなことが数年も続いたといいます。のちに明治、法政、中央、専修、日本というような大学として発展していく神田の法律学校もみなそういうぐあいで、どの法律学校も夜に開講したのは、東京大学教授が夜しか私的時間がなかったことによります。この点、私立医学校においても事情は変わらなかったといいます。

 ひるがえって米山奨学事業を考えますに、われわれの先輩諸氏が昭和28年(1953年)に日本人の平和を願う心を伝えてもらおうと、インド、タイから3人の留学生に奨学金を支給したのが始まりで、これが全国のロータリークラブに広がり、いままでに約13,000人の卒業生を送り出しました。会員の寄付によって今後も継続していくということは、この米山奨学事業が、世界に日本との友好関係という電流を配る配電盤の役を果たしているといえます。

日本に来て、見たこと、感じたこと

米山奨学生
目白大学 人間社会学部 4年
Ms.Nguyen, Thi Cat Uyen

 ただいま、ご紹介を戴いたグエン・ティ・キャット・ウインと申します。ベトナムから日本に来て、あっというまに5年が過ぎてしまいました。この5年間は私にとって、とても刺激的で、素晴らしい経験であり、私の自分の人生の中でも色々と勉強になり、影響を受けた日々だったと思います。

 日本へ行く前に、日本について殆ど情報を持たず、知らない世界でしたが、ベトナムの新聞やテレビのニュースで、日本は世界でも大変発展した経済大国だと知っていました。

 父が経営している籐製品の工場に日本人のお客様方がたくさん来て、雑誌などをお持ちになるので、良く日本の雑誌などを見たものでした。初めて見た日本の雑誌はまったく不思議な文字が並んでいました。あとで、それは漢字やひらがな、カタカナである事を知りました。

 それから、雑誌の印刷の美しさには本当にビックリしました。美しい商品がたくさんあるだけではなく、日本の景色と日本の生活なども紹介されていて、日本は美しい国だなあと思い、日本についてもっと深く知りたくなり日本に留学することを決心しました。それから、桜や富士山を見ることも大きな目的の一つでした。

 日本に来てから5年間は、最初の日から今まで、本当に色々なことが起こりました。今、全部を思い出せませんが、初めて日本に来て、成田空港から東京駅まで、びっくりしたことがたくさんありました。

 特に東京駅は凄く込んでいて、日本の人たちは何かみんな早く歩いたり、急いで走ったりしていたことが一番気になりました。何か事件でもあったのかなあと思い、凄く好奇心を持ちました。

 ベトナムでは、人々が急いで走るのは、事件か事故があるか、それから避難することか、野次馬となって、人々が起こった場所の方面に走っていくときなどです。もう5年間日本に暮らしたので、どうして東京駅で人たちは急いで走っていたのか、今は理解できるようになりました。やっぱり日本は何でも時間通りに正確に動いているからです。やはり経済が発展していく為には、基本的な約束や時間は絶対に守らなければいけないと感じています。

 初めて日本に到着して、電車からみえたきれいな桜だし、雪をかぶった大きな富士山が青空を背景にして見えたときは、本当に感動しました。この美しい日本は私が大好きです。景色だけではなく、人々のこともよく気になりました。日本人の全体的な印象は、私が出会った人たちは殆ど良い人だし、とても教育熱心な方々でした。先生方にはいつもお世話になり、大変嬉しかったです。

 米山奨学金を頂くようになってから、私の人生はなんとなく少し変ったと感じています。米山奨学生となってから、自分の生活は以前に比べて、安心して勉強することが出来るようになりました。生活に余裕が出来たので、ゆっくりとものを見たり、考えたりする事が出来るようになりました。生活に余裕が出来たので、ゆっくりとものを見たり、考えたりする事が出来るようになり、本当に心から大変感謝しております。

 特に、米山のカウンセラーの方々は、社会的に地位もあり、ご経験が豊富な方々なので、とても良い勉強になりました。時々、一緒に桜を見に行ったり、食事にご招待されたりすることもあり、本当に楽しく、素晴らしい経験をさせて頂きました。

 田口様、小野様、宮崎様、田辺様、現在の橋本カウンセラーには色々と本当にお世話になっております。本当にありがとう御座いました。

 米山奨学会で、特に勉強したことは、人のために無償で尽くすと言う、人間としての暖かい愛情と熱意でした。このような人との深いつながりを、世界中に広げている事をしり、より平和な世界を作ることに大変な貢献をしていることに深く感動しました。

 私もベトナムに帰ったら、米山奨学生として、ここで学んだ事を自ら実践して、社会のために少しでも貢献できるような、何かをしたいと強く感じています。