卓話


江戸の商家の経営と生活

2月25日の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

(財)三井文庫 常務理事・館長
(財)日本経営史研究所 会長
由井 常彦 氏 

私たちには,日本の近代化がイギリスなどと比べて非常に遅れていたという通念がありますが,18世紀には,当時の江戸は既に世界一の大都市でございまして,百万人以上の人口でありました。しかもその大多数が消費者ですから,江戸は世界最大の消費都市です。 当時のロンドンは,まだ50万程度といわれておりまして,最近の都市の比較研究でも,18世紀の江戸は,人口においても消費においても世界一ということになっております。

当時の日本の特徴は,江戸,大坂,京都の三つの都市が非常に発展して,三大都市の時代でした。したがって,東海道五十三次というのはたいへんな意味をもっていたということです。つまり,東海道約4百数十キロの間に,53も宿場があって,そこには宿屋も医療設備も馬もあるし飛脚もあるし,困った時にはすべてのことが行き届いていたわけです。つまり,すばらしい交通運輸,旅行のシステムができあがっていたというわけです。

こんな例は,世界にも全くありません。東海道五十三次の文化的経済的意義というものは,世界に冠たるものであると言って差し支えないと思います。

江戸時代の人は東海道五十三次の旅を楽しみました。その道中記もたくさん残されています。東海道五十三次を歩くことは誰にとってもすばらしい楽しみだったわけです。

荷物のほうは陸上輸送でなくて,ほとんどが海上輸送でした。回船問屋というのがございまして,江戸−大坂間は船で運びました。最近の研究で明らかになったことは,定期便は極めて正確だったということです。不定期便や、一種の保険などリスクの分散も発達しておりましたし、米や酒,その他,俵の輸送は全く安全でした。

郵便の制度も,我々は,遅れていたと考えがちですけれども,飛脚の制度が非常に進んでいまして,大体,一週間で間違いなく届けられました。早飛脚は3日間で着きました。

明治時代になってヨーロッパからポスタルシステムが入ってきた時も,理解が簡単だったのです。従来とそんなに違っていないのではないかということで,飛脚問屋の方が地方の郵便屋さんになり,明治20年ごろには郵便局の制度は日本全体にほとんど完成しました。 それは何故かというと,やっぱり江戸時代に,そういう飛脚の制度が発達していて,新しいことを考える必要がなかった。基本のシステムが同じですから,すぐ分かった。同じように,貨物輸送にしても,今までの帆船を汽船に替えれば困らなかった。そういう意味で,インフラストラクチャーのシステムやアイディアは,江戸時代にかなりあったということです。

特徴的に発達したものとして,はっきりしたものは,取引上の制度があります。これは,江戸よりも大坂です。堂島の米取引所の発展はすばらしいものでして,今から3百年くらい前,17世紀の終わり頃には,先物取引が発達して,大体の取引はこれで行われるようになっていた。それでいて,ほとんど間違いはなかったそうです。

日本の取引所のシステムは,江戸時代に習熟していて,それが明治時代に引き継がれたというわけです。リスクの分散についても,非常に高度なシステムが発達していて,しかも,あまり大失敗がないように,最後のところは面倒をみるとか,大混乱するときには「解け合い」とか話し合いで始末をつけるといった考え方が既にあったのです。近代化した明治,大正,昭和になっても,取引所のシステムは,日本では,日本なりに機能するシステムでした。

三井越後屋は,今の三越のある所が三井越後屋呉服店でございます。三井越後屋なので,縮めると三越になるのですが,江戸時代はほとんど越後屋といっていました。

敷地の面積を調べてみますと,非常に大きかったことが分かります。江戸時代に千坪の広い店舗に従業員が千人近く働いて一日の売り上げが千両という小売店です。こんな小売店は世界にありません。恐らく越後屋呉服店は18世紀から19世紀の初めにかけて世界最大のRetail shopだったと思います。

 330年前にできたわけですけれども,有名な「現金掛け値なし」というfixed price。すべての商品に定価がついていました。

もっとも今と同じで,大得意の顧客にはツケの制度がありましたが,店頭ではすべてキャッシュで定価でした。これも世界に例がありません。しかも,即座仕立て,場合によってはイージーオーダーなどもできたと思われます。寸法もグレードも,ありとあらゆる商品を取り揃えていたというビジネスプラクティスとしても非常に進歩した経営をやっていたということも明らかでございます。あらゆる商品をすべて揃えて,あらゆるサービスをやる。店員もよく訓練されていました。

その商店経営と生活をのぞいてみますと,店にいた人は2,3百人ですけれど,三井全体,三井家とすると千人くらいになりまして従業員システムも非常に発展したものでした。

 最初は「丁稚」,12〜3歳の住み込みです。お仕着せといって給料はありません。これを数年やって,17〜8歳になると「手代」に昇進します。この時は,ちゃんと羽織袴に裃を用意して,武士の元服と同じような儀式があります。手代を数年やって,25〜6になると,「番頭さん」になる。マネージャーです。番頭は自分の判断でビジネスができます。

番頭をやっていて独立する人は「別家」が許されます。「通い番頭」も居ました。

「通い番頭」は 45〜6歳になると,そろそろリタイアの準備をして,その後も,優秀な人は「老分(ろうぶん)」という相談役・顧問になります。

老分をやって終身雇用で亡くなりますと,三井家のお墓の隣に,「総墓(そうはか)」というお墓が用意されています。一生勤めあげた人は,お葬式とか,お墓の心配がいらないのです。これも世界に例のない制度です。

給料や昇進の制度も,うまいシステムが考えられていました。まず,丁稚の契約は全員2年か3年の奉公をするという契約システムです。契約の期間が過ぎると全員一度国に帰ります。田舎に帰ってしばらくすると優秀な者には再び声がかかります。これを「登せ」といいます。「登せ」を2度ぐらいやると大体17〜8になります。そうすると手代です。優秀な人が手代になるようにできているのです。

「登せ」に呼ばれなかった人も丁稚の時代に読み書き算盤を教わりますから身につけた能力は田舎では大威張りです。誰もが面目がたって,誰もが後ろ指を指されないようにして,能力のある人を残していくシステムです。

こういう人達の一日の生活はどうかといいますと,江戸時代は絶対時間ではなく相対時間ですから,今の時間とはっきり比較できませんけれど,とにかく夜が明けると店か始まります。丁稚さんは,雑巾掛けと拭き掃除がたいへんです。特に,何百とある煙草盆を磨くのがたいへんです。

お客様は,きれいな座布団に座って,ぴかぴかに磨いたキセルで煙草を一服すって,それから商談を始めるという具合です。

夕方,仕事は比較的早く終わります。夜は,丁稚たちの勉強が始まります。手代たちは,まずお風呂に行きます。そこで銭湯がうんとはやりました。その後は,清元,常磐津,義太夫のお稽古です。10月にはお師匠さんたちを連れてきまして,模範演奏を聞いて,その後,自分たちの腕を披露する日があり、11月は歌舞伎の総見でした。 江戸時代の商家というのは,1月から12月まで,びっしりとスケジュールが組まれていました。1月はボーナスの支給されます。「寄り合い」といって重役会議,店員の会議があって,人事の発表,経営方針の発表があって,全員がそれを了解して仕事に取り掛かる。

毎月のようにお祭りがあって,特に春と秋の「恵比須講」が楽しみでした。

健康診断もちゃんとありました。全員が受けます。調子の悪い人は温泉治療などを受けます。そんなに悪くない人は,先生が灸つぼを教えて,もぐさを渡します。 長く務めた人は,それぞれに長期休暇がありまして,故郷に錦を飾ります。お伊勢参りもはいっています。

11月の暮れから12月になるとボランティアもあります。寒くなると,恵まれない人々が
気の毒なので,三井家では,それぞれ,着る物を持ってきまして,恵まれない人に渡してやっています。無駄のない生活です。

 このように,商人の生活というのは,細かく入念にできていました。商家だけでなく,庶民の当時の生活も,すべてリサイクルで無駄がありません。リサイクルビジネスのシステムもできていました。そういう生活が普及していた江戸時代でした。

例会訪問







ワシントンRCより、テラス姉妹クラブ委員長が例会を訪問された。
100周年記念事業としてツインクラブへの登録を両RC理事会で承認した議事録の写しを交換した。