卓話


日本近代史と共に歩んだジャパンタイムズ110年の歴史 

2007年12月5日(水)の例会の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。

株式会社ジャパンタイムズ
代表取締役会長
小笠原敏晶氏

 ジャパンタイムズは、今年110年を迎えました。100年以上の歴史をもち、現在も発行している英字新聞は、アジアでもインドの、「The Times of India」やシンガポールの「Strait Times」など10紙程度です。
 
ジャパンタイムズは、波乱に富んだ歴史を刻みました。「賢者は歴史に学ぶ」、「温故知新」という格言がありますが、日本の近代史と共に歩んできたジャパンタイムズの歴史を通して、今後の日本の在り方や課題を考える一助となれば、幸いです。

現在、日本には英字の日刊紙が3紙あります。英語を第二公用語にしている国ならおかしくありませんが、日本のような、日常のコミュニケーションに英語を使う人は、まずいない国で、三つの英字新聞が毎日発行されているのはめずらしいといえます。

その3紙のうち、「デイリー・ヨミウリ」と「ヘラルド・アサヒ」の2紙は邦字新聞社の発行によるもので、独立した英字新聞は「ジャパンタイムズ」だけです。

日本で最も古く、新聞の形態をなした新聞は、1861年に長崎の居留地で発行された「The Shipping List and Advertiser」紙で、それ以外はいわゆる「かわら版」でした。イギリス人のハンサード(A.W. Hanserd)という人によって発行されたもので,主な内容は、長崎に入港する船の名前や到着日、積み荷の内容などを紹介するシッピング・リストでした。あわせて内外のニュースも紹介していたので、「新聞」と考えられます。この新聞は、後に貿易の中心地が長崎から横浜に移ったので、廃刊に追い込まれます。

 その系譜を継ぐ「ジャパン・クロニクル」という英字新聞を、ジャパンタイムズが、1940年に合併しました。従って、現在のジャパンタイムズは、日本で発行された最初の英字新聞の流れをくむ、日本で現存する最古の英字新聞であるということになります。

ジャパンタイムズは、1897年(明治33年)3月22日、山田季治(やまだすえじ)と頭本元貞(ずもともとさだ)という二人の人物によって創刊されました。

山田季治は福沢諭吉の親戚にあたる実業家でした。彼は、慶応義塾で学んだ後、名古屋で中学校の英語の教師をしていましたが、後に財界に転じ、日本郵船会社の支店長を歴任し退職、その退職金を基に、日本人の手による初めての英字新聞を発行しようとしていました。頭本元貞は、山田が英語を教えていた時の弟子で、伊藤博文の秘書を務めた人物でした。彼もまた、かねてから、英字新聞の発行を考えていました。

この二人が協力して、ジャパンタイムズを創刊することになったのですが、資金面では、福沢諭吉が非常に力を尽くしたことが資料として残っています。

英字新聞を発行するに至った動機について、創刊号の社説「レゾン・デタール(わが存在理由)」は、「帝国臣民と居留地外国人の間に起こりがちな誤解を解消し、相互理解を図る手段として、新聞を発行するのだ」と書いています。

当時はまだ、函館、新潟、東京、横浜、大阪、神戸、長崎の七つの都市に「外国人居留地」がありました。これらの居留地は1858年に、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国と結んだ「修好通商条約」に基づいて設置されたもので、日本の裁判権の及ばない治外法権の地域であり、関税の自主権も奪われていました。

明治政府は、この欧米諸国との間の不平等な条約の改正を最大の外交目標としました。明治政府は、アジア以外の国の一つと、まず対等条約を結び、それを前例として欧米諸国と再交渉することを考えていました。

 政府が初めに白羽の矢を立てたのは、鎖国以前にフィリピン総督を介して日本と外交実績があったメキシコです。1888年、日本は、「日墨修好通商条約」を締結しました。この平等条約締結のお礼として、明治政府は在外公館の用地をメキシコに提供しました。今日、メキシコの駐日大使館が永田町にある由来はこれに帰します。永田町の一等地に一戸建の大使館というのは他に例がないそうです。

 陸奥宗光が外相に就任した1894年7月、日本とイギリスとの間に「日英通商航海条約」を結び、初めて治外法権の撤廃に成功し、それに追随して他の国々とも条約の改正が行われました。しかし、ジャパンタイムズが創刊された1897年には、居留地はまだ残っていました。条約が発効すると、外国人との「内地雑居」が実施されることをにらんで、いかに外国人とのコミュニケーションを図るかが、国内の大きな課題であったわけです。

ジャパンタイムズ発刊の動機は、まさに「日本人と外国人との間の懸け橋になろうと」という使命感によるものでした。創刊号の社説では「日本は、言葉の問題もあって、日本の意図は列強には分かってもらえない。ジャパンタイムズは、日本の方針を外国に伝える働きもしたいのだ」とも述べています。 

 この社説は、110年経った今でも、十分通用する社説であるという気がします。

明治時代の大きな出来事は、1902年の「日英同盟」と、1904年から1905年にかけての「日露戦争」でした。日英同盟は、1921年に廃棄されるまで20年間続きました。この間、日本は国際的に飛躍的な発展を遂げ、日英同盟締結が日本の外交面での大きな成功であることを、その後の歴史が物語っています。
 
 ジャパンタイムズは、1902年2月13日の社説で、桂首相の外交政策を賞賛するとともに、国民を驚かせ、喜ばせる形で、その事実を発表した手際のよさを褒めたたえています。

日露戦争では、日本は旅順を陥落し、「日本海海戦」で大勝利を収めたものの、国力は限界に近づき、戦争の終結を迫られておりました。そして、1905年8月に、ポーツマスで講和会議が開催されます。難航した講和条約がまとまり、全権大使小村寿太郎が日本に帰国したところ、妥結の内容が日本にとって大変屈辱的であり、賠償金も全く取れなかったことに対して国民は激しく怒り、邦字紙が、それをさらにあおる形となり、日比谷交番焼き打ち事件にまで発展しました。

その時、ジャパンタイムズは、活発な国際協調論をとって、当時の日本人の好戦論をたしなめました。ジャパンタイムズ紙面で、「好戦論の非なること、危険な道である」と論陣をはったのが、あの内村鑑三でした。

当時、ジャパンタイムズの記者であった馬場恒吾(ばばつねご)は、「交番焼き打ちの様子を見て、新聞社に戻り興奮した気持ちでその話をすると、頭元社長は嫌な顔をした。それは軽はずみな言動をしてはならないということであり、大きな教訓を得た」と回顧録に書いています。馬場恒吾は、後にジャパンタイムズの編集局長を務め、第二次世界大戦の頃は評論家として活動していましたが、軍部からにらまれ執筆の自由を失いました。しかし,終戦後の昭和20年2月に、読売新聞の正力松太郎氏の後を受け、社長に就任し、日本新聞協会の初代会長にもなっています。

時代は大正時代に移りますが、この時代にジャパンタイムズが特に力を入れたのは「日米問題」です。

 日米関係は、日露戦争が日本の勝利に終わったことによって、次第に悪化していきます。

アメリカでは、日本の力、特に海軍力には恐るべきものがあると見るようになり、日本との衝突を想定した「オレンジ・プラン」という作戦計画が作成されるなど、日本を仮想敵国と見なすようになりました。

日米の対立に拍車をかけたのは、日本人の移民問題でした。20世紀にはいる頃から、日本からアメリカ西海岸地域への移民が急増します。安い賃金で勤勉に働く日本人の流入は、中産階級以下の白人労働者の雇用や賃金に影響を与えました。そうした経済的な理由だけではなく、人種的な偏見もはたらいて、日本人排斥運動が次第に勢いを増していきます。

1924年(大正13年)には、クーリッジ大統領が「割当移民法」に署名します。この法律は実質的には、「排日移民法」であり、これによって、日本人のアメリカへの入国が一切禁止されてしまいます。

 こうしたなかで、ジャパンタイムズは1924年10月に「Message From Japan To
America(日本からアメリカへ)」という特集号を5万部発行し、さらに、その年の12月には「A Message From Americans In Japan(在留米国人の意見)」という特集号を出して、日本の正論を主張する一方で、できるだけ正面衝突を避け、米国側の世論が日本に対して有利になるように働きかけ、関係改善に努めました。この時の所論に対して、アメリカからもよい反響が寄せられ「多くの識者から評価の手紙をいただいた」という記録が残っています。

大正時代の特筆すべき出来事は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災です。この時、東京の新聞社で焼け残ったのは、東京日日新聞,報知新聞、都新聞、それにジャパンタイムズの四社だけでした。ジャパンタイムズのビルは傾き、印刷工場は足の踏み場もない有り様で、電気ガスは止まって、機械を動かすことは不可能な状態でした。それでも地震から三日後には、タイプライターをビル前の路上に据えて、カーボン紙をはさんでタイプを打ち「号外」を出して、近くの帝国ホテルに届けたそうです。当時の新聞記者魂には頭が下がります。

話は昭和初期にすすみます。昭和初期は、世界経済が大変な時期を迎えました。1929年(昭和4年)10月24日、ウォール街の株価暴落に端を発し、アメリカで大恐慌が起こり、それが世界に広がります。日本経済も大きな打撃を受けました。

そうしたなか、1931年(昭和6年)に誕生した犬養毅内閣は、金本位制を停止し、円の暴落を放任する政策をとります。その結果,対外レートは、1ドル=約2円であったものが、わずか一年の間に、1ドル=5円という「超円安」になってしまいました。

円の切り下げは、輸出を拡大させ、輸入を抑制することになり、不況の克服策として効果を上げ、1932年には、日本は他の諸国に先駆けて恐慌から回復する道をたどることになりました。しかし、綿製品などを中心に、日本からの輸出の急増は、アメリカはじめ、世界各地で日本品の排斥運動が起こり、貿易上の摩擦を生むことになります。

ジャパンタイムズは、「日貨排斥」が盛んになった時、その非を論じ、日本の声を海外に反映させる役割を積極的に果たすように努めました。

1933年(昭和8年)には,日本は国際連盟を脱退して,国際社会から離脱して危険な道を歩みはじめます。国粋主義が台頭し、右翼化、軍国主義化が進んでいきました。これに対してジャパンタイムズは、一貫して慎重な姿勢を保ち、その危険性を説きました。

日本が国際連盟を脱退した年に、ジャパンタイムズの社長に就任したのは、芦田均氏でした。芦田の社長時代、特に晩年は、世の中が準戦時体制に変わっていく時期であり、自由主義者の彼は、時の政府や軍部から白眼視され、新聞社の経営も非常に苦しい日々が続きますが、新聞は発行され続けました。

この時期に、経営に関して大きな出来事がありました。それは、1940年(昭和15年)に、東京のアメリカ系の英字紙「ジャパン・アドバタイザー」と、神戸のイギリス系の英字紙「ジャパン・クロニクル」を、ジャパンタイムズが吸収合併したことです。これによって、日本の英字新聞の一本化が図られました。

両紙を合併した翌年、1941年に太平洋戦争が起こってしまいました。ジャパンタイムズは「WAR IS ON」という見出しの号外を発行しました。

軍部の圧力が強くなり、紙不足や召集による人手不足も起こり、また英語を敵性語とみなし、英語教育をやめるなど、状況は日ごとに悪化していきました。そして遂に、新聞の検閲制度がとられるようにようになりました。

英字新聞であるジャパンタイムズは、紙不足のために紙面が2ページになりましたが、ほとんど休刊することなしに、戦争中も発行を続けていました。

 なぜ発行が続けられたかというと、ジャパンタイムズについては軍部の宣撫工作という方針があり、また、ドイツ、イタリアの枢軸国とは英語で関係を続ける以外に道がありませんでした。戦争になって、逆に英字新聞の必要性が認められ、政府から発行禁止を命ぜられることはありませんでした。

ただ、戦争が進むにつれて、英語表記ができなくなってきました。「ジャパン」を新聞の題号にするのは好ましくないと、軍部から圧力がかかり、やむを得ず、1943年に「ニッポン・タイムズ」と改称しました。

 ジャパンタイムズは、戦争末期には、戦争終結に向けて努力しています。日本の敗色が濃厚となり、一億総玉砕が叫ばれるなか、政府や外務省が本音とするところは、軍部と違って、なんとか平和の道を探ろうというところにありました。そこで外務省は、日本の考えが決して戦争遂行一本槍ではないことをアメリカに伝えるために、東大教授で英米法の権威であった高柳賢三氏を外務省参与として雇いジャパンタイムズに記事を書かせました。

 その記事は「JAPONICUS」というコラムで、1944年3月から1945年の終戦直後までに、6本のコラムが書かれています。行間に本当の意図を隠して、分かる人が読めば、その言わんとするところが分かるように、巧妙に工夫された文章でした。

この文章は英米向けの短波放送でも放送されました。日本の、唯一外国に開かれた窓口であったジャパンタイムズを通して、戦争終結に向け、このような駆け引きが行われていたことは、たいへん興味深いと思います。

1945年(昭和20年)に戦争が終わりました。占領軍が日本に進駐してきました。これは、ジャパンタイムズにとっては幸いでした。

駐留米軍は「スターズ・アンド・ストライプス」という機関紙をもっておりましたが、やはり、内容は一般紙の魅力にはかないませんでした。そこで、司令部は日本政府を通じて、「ニッポン・タイムズ」紙を大量に買い上げ、日本駐留の将兵に配布しました。いわば、一種の特需でした。

マッカーサー元帥が毎日、ニッポン・タイムズを読んでいるという話が伝わると、その評判はますます上がりました。事実、GHQのスタッフはニッポン・タイムズを読んで、日本政府の高官や財界人に注文をつけました。日本の政府の各機関や経済界でもニッポン・タイムズは必需品になりました。多数の将兵の家族も日本に住むようになり、多くのバイヤーが来日するようになりました。日本人の側にも、英語を学ぼうとする熱が盛んになってきました。その結果、英字新聞への関心が高まり読者が急増し、まさに、ジャパンタイムズの黄金期を迎えました。

ところが,1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約が成立すると、進駐軍は引き上げ、「日米安保条約」に基づく駐留兵だけが残るという状況になってしまいました。

競争相手として、他の英字新聞が生まれてきたこともあり、それまでのジャパンタイムズの繁栄は沈静化していきました。

1956年(昭和31年)、ジャパンタイムズの経営不振を打開するために、外務省出身の福島慎太郎氏がジャパンタイムズの社長に就任しました。福島氏が、まず実行したことは、戦争中に変えた「ニッポン・タイムズ」の題号を創刊当時の「ジャパンタイムズ」に戻すことであり、1956年7月1日発行の新聞から、名称が元に戻りました。

福島氏は、1972年まで社長を務めましたが、在任期間中の大きな出来事に安保闘争があります。

 「日米安保条約」の改定をめぐる安保闘争は、1959年(昭和34年)の夏以降から次第に激しさを増していきました。当時の新聞は、挙って、安保改定は日本を戦争に巻き込む危険性を指摘し、国会での批准に反対の姿勢を示しました。政府への抗議が高まるなかで、岸内閣は5月19日自民党による単独強行採決を行い、新安保条約の批准を可決します。

 これによって参議院の承認が得られなくても、1カ月後の6月19日には、新安保条約が自然成立する運びになりました。折しも、この日は、アイゼンハワー大統領の訪日が予定されており、戦後初めてのアメリカ大統領の来日として記念すべき日となるはずでした。しかし、連日の大デモを前にして、警察当局が治安に責任を負えないとの結論を出したため、既に、フィリピン経由で訪日の途にあったアイゼンハワー大統領の来日が急遽取りやめになりました。

日本のほとんどの新聞が反対するなかで、ジャパンタイムズはこの条約を支持しました。「日米安保は日本軍国主義の復活を防ぎ、日本を、アジアの平和な安定したバランスに貢献する勢力として、とどめておく」というメリットを指摘して議論を展開しました。この認識は、現在では、国内だけでなく、中国、韓国、東南アジア諸国においてさえ、広く認められていることですが、当時としては稀な意見でありました。

このように、ジャパンタイムズは、歴史的にみて、日本は世界との協調を図っていくことが重要であり、特に、アメリカとの協調が、我が国の国益にとって、またアジアの平和にとって不可欠である、という立場で報道し、議論を展開し続けてまいりました。

1964年(昭和39年)には日本で東京オリンピックが開催されました。この時、ジャパンタイムズは終戦直後に次いで、非常に活況な時期を迎えました。

 しかし、1970年代に入ると、日本経済は二度にわたってオイル・ショックに見舞われます。ジャパンタイムズも紙の高騰から紙面を減らさなくてはならない状況に追い込まれるなど、大変苦しい時代が続きました。

こうした状況のなかで,福島氏が共同通信社の社長を兼ねることになり、1972年から、東内良雄(ひがしうちよしお)氏がジャパンタイムズの社長に就任しましたが、福島氏も精力的に仕事を続けました。その福島氏からの要請を受け,1983年4月から、私がジャパンタイムズの第17代の社長に就任し、今日に至っております。

ジャパンタイムズは、日本の近代史と共に歩いてきました。それぞれの歴史の節目でお役に立つようなこともしてきました。これからもジャパンタイムズは国の内外で重要な役目を果たしていきたいと思っております。