卓話


一生勉強一生青春〜父相田みつをを語る

2014年7月9日(水)

相田みつを美術館
館長 相田一人氏


 相田みつをの作品は、見る方によって印象が極端に分かれると言われます。私の話は、あくまでも息子の目から見た父であり、非常に限られた立場、視点から見た相田みつをという人間についてであるということを、まずお話ししておきます。

 相田みつをといえば、『にんげんだもの』です。父の代名詞と言える本で、30年前、父が60歳、還暦の時に初めて出版した本です。父が世の中に知られるのは遅く、この本によって少し知られるようになります。この本は長い時間をかけてじわじわ読まれ続け、現在は300万部近くになりました。文庫本も入れると450万部とも言われ、世代を超えて多くの方に読み継がれています。

 父が67歳の時に脳内出血で突然亡くなってから今年で23年経ちます。5月20日が誕生日ですので、存命であれば満90歳です。『にんげんだもの』の出版30年、父の生誕90年という2つの節目に当たり、現在、美術館では『にんげんだもの』を特集した企画展を行っています。美術館はここから徒歩10分程の東京国際フォーラムにありますので、お時間があればぜひご覧いただければと思います。

 今日は特に父にまつわる誤解について話をします。最も多い誤解は、独特な文字についてです。

 父は、1924年(大正13年)、東京から約100キロ離れた静かな田舎町の栃木県足利市に生まれ、生涯をそこで過ごしました。父は、少年期、青年期に戦争を体験し、終戦の日を21歳の兵隊として迎えました。あと一週間戦争が長引いたら確実に死んでいただろうと言っていました。

 父がアトリエと呼んでいた仕事場は、30畳の広さで、柱が一本もないボックス型の造りでした。当時、貧乏のどん底暮らしでしたが、そこに籠もって朝昼晩、ひたすら書を書く生活でした。父は書家であると同時に詩人です。自分で詩を作って自分の筆で書にするというのは、自作自演という点でシンガーソングライターに似ています。独特な文字もそこに由来します。

 仕事場の写真に、大きな紙の山が写っていますが、これはすべて失敗した書です。「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」という作品のように、父はぱっとひらめいた短い言葉をさらさらと書いて作品にしているという誤解があるようですが、父はどんな短い詩であれ、長い時間をかけて生み出し、それを膨大な数の書にします。立って書いたり、座って書いたりし、書きあげた瞬間に、失敗したものは自分の右や左にぼんぼん捨てていきます。不思議なもので左右均等に同じような紙の山ができました。ご覧いただいている写真は父の左側が切れていますが、左側にも右と同じような膨大な紙の山があるのです。ですから、1日にこの写真の倍の量を書いていたことになります。そのなかで一番よくできたと思われる一枚以外は全部燃やす。その繰り返しでした。

 父は書に求めるものが非常に深く、「自分には恥ずかしい書ばかりで、納得のいく書は一点もない」と言っていました。失敗の山を燃やすのは、私でした。毎日、小学校から帰ると父に紙の束を渡され、風呂の焚きつけにしました。和紙ですから火力はそんなに強くないのですが、量が膨大なので夏などはすぐ風呂がわきました。

 それから、父の書はすべて真剣勝負です。練習用の紙は一切使いませんでした。母が言うには、父は調子が出ると1日に3万円分の紙を使ったそうです。昭和30年代、一部上場企業の大卒の初任給が1万5000円位の時代の3万円は、今なら30万円以上に相当すると思います。つけでなんとか紙を工面してもらっていました。

 そうした生活の中から生まれたのが、「一生勉強 一生青春」です。これは父が自分の座右の銘にした言葉です。「人間若いうちは心も体も柔らかい。ところが年齢を重ねると、どうしても体は硬くなる。しかし、心だけは常に若々しくありたい。そのためには、『一生青春』というかけ声だけでは駄目だ。絶えず勉強しなければ心の若さは保てない。だから、一生勉強と一生青春は二つで一つ、どちらが欠けても成り立たない」と言っていました。

 父は、たまに病気をしたり、家を空けなくてはならない場合以外は、必ず筆を取っていました。「1日筆を取らない日があると、10日間位調子が戻らない」と。そして、こんなことも言っていました。「ある小説家が10年間沈黙した後にいきなり傑作を書くことはあるかもしれない。ところが10年間沈黙していた書家が10年ぶりに筆を取ったら傑作なんて絶対に書けない」。父は筆の鍛錬を欠かしませんでした。また、父は全て自分の体験を基に言葉を紡ぎ出すタイプの詩人でした。私は、「一生勉強 一生青春」という言葉を見るたびに、失敗の山が築かれたアトリエを思い出します。

 父の書は一見簡単そうですが、実はそう簡単に書けるものではありません。父、母、私、妹の4人家族は、あるおばあさんの家を間借りし、ふすま一枚隔てた8畳一間に住んでいました。しばらくして、父はその土地にアトリエを建てます。母の実家が材木業をしていたため、その助けを借りました。その時、周囲は、この30畳のアトリエを10畳と20畳に仕切って家族が住めるようにしてはどうかと言ったのですが、父は家族には一切使わせませんでした。父がここで書を書いているときは、ものすごい集中力がみなぎっており、怖くてそばに寄れませんでした。

 父は10代から書を本格的に始めました。17歳で当時栃木県の第一人者であった書家に入門しています。当時の書を見ると、なんていうことはない17歳の少年の字が、3年後の20歳の時には、かなり上手くなっています。終戦後、昭和22年、父が23歳の時に戦後初の大きな全国コンクールがあり、見事第一席になります。23歳での全国コンクール制覇は、当時も今でも若いと思います。26歳で毎日書道展に入選した時の書は、いわゆる書家風の文字でした。

 それが、どうして独特な文字になっていったのか、同じ文字を父が3つのパターンに書き分けたもので説明します。

 父は写経をしており、同じお経を楷書や草書で書いています。父はプロの書家ですから書こうと思えば、こうした文字が書けたのです。しかし、父は、「こうした文字は、見た人が上手いと感心はしてくれるが、感動はしてくれないのではないか」と感じました。

 そして、30歳位から自分の言葉を書くようになります。その言葉や詩には、先ほどの楷書や草書は合わないと思い、だんだん独特な文字に変化させ、見た瞬間に相田みつをの文字だとわかるスタイルになっていきます。最近、父の文字をまねされる方が多いのですが、書の伝統的技巧で書ける力がなければ、実際はまねできません。

 父は、自分の詩にふさわしい文字を作り、代表作にたどりつきます。「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」。父の代名詞といっていい作品で、父の思いと文字がぴたりと一致し、見た方に非常に強い印象を与えます。もしこれが活字だと、意味は同じでも、父がこの言葉にこめた思いは抜け落ちてしまいます。この文字でなければ、父は自分の思いを伝えられないのです。

 それから、もう一つ解いておきたい誤解は、「お坊さんだったんじゃないか」というものです。お坊さんではありませんが、父には若い頃から仏縁がありました。「そのときの出逢いが 人生を根底から 変えることがある よき出逢いを」という作品が残っています。父の人生には、節目節目で大きな出会いがありました。父は10代で足利市の禅寺の住職だった武井哲応氏と出会い、生涯尊敬します。この寺は曹洞宗で、父は素人でしたが一生懸命座禅をし、道元禅師を勉強させてもらいました。そのベースがあるため、先ほどの誤解があるのでしょう。父は40年座禅をさせていただき、道元禅師を通じて、作品にもした「そのときどう動く」ということを学ばせてもらったと話していました。

 これをもっとわかりやすくした作品は、「ともかく具体的に動いてごらん 具体的に動けば具体的な答が出るから」だと思います。よく父の作品に触れて「癒やされる」とおっしゃる方が多いのですが、父の作品には、安易な癒やしの言葉はなく、むしろ突き放した表現が多いのです。この作品も、「具体的に動けば具体的に答が出るから、その答を受け止めてまた動けばいい」という意味だと思います。これが父の生き方です。

 そんな父の生き方を表した作品を最後に皆さんに紹介します。「道」です。これは父の歩んだ人生そのものです。父が自分で詩を読んでいる音声を聞いていただき、話を締めくくらせていただきます。

 「長い人生にはなあ
 どんなに避けようとしても
 どうしても通らなければならぬ道
 というものがあるんだな
 そんなときはその道を
 だまって歩くことだな
 愚痴や弱音を吐かないでな
 黙って歩くんだよ
 ただ黙って
 涙なんか見せちゃダメだぜ
 そしてなあその時なんだよ
 人間としてのいのちの 
 根がふかくなるのは」


     ※2014年7月9日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。