卓話


イニシエイションスピーチ

2010年6月9日(水)の例会の卓話です。

國分 晃君, 豊川 圭一君 

酒類食料品問屋という仕事

国分
専務取締役 國分 晃 君

 国分は創業1712年で、本年で創業298年になります。

 酒類食料品問屋として、酒類・食品メーカーさん9700社から54万アイテムを仕入れ、全国各地の約190の物流拠点から、約4万口座のお得意先に商品を供給して、連結で1兆4,273億円を売り上げています。

 54万の商品アイテム数について言えば、コンビニエンスストアの品揃えが、約3000アイテム、450〜600坪のスーパーマーケットで約12000〜15000アイテムを品揃えしているのに比べると、問屋の取扱商品の多さがご理解頂けるとおもいます。

1.日本の酒類食料品問屋機能について
 日本の流通特性から、何故問屋が必要なのかについて少々お話したいと思います。

 問屋の機能は、日本人の食生活に起因しています。当たり前の事ですが、日本は土地が狭く家も小さく、人々の購買行動では、生鮮品の消費が大きく、旬を取り入れ、季節によりメニューが変わる事が特徴です。その結果、買物頻度が非常に高くなっています。

 地域によって、食文化も大きく異なります。日本列島は南北に伸び、中央の山脈で分断され、多様な気候が存在するからです。江戸時代には、260〜270の藩があり、人々の流動性が低かった事も背景にあります。

 その他、内食比率がとても高く、家庭では、和洋中イタリアンと、幅広いメニューが料理をされる事も特徴です。日本以外の国では、あまり考えられない状況といえます。

 これらの特徴が、日本の流通構造を長年にわたって築き上げてきました。それは、小売店の多さにも現れています。1万人当たりの食品店舗数は約30店舗で、米国の4倍、ヨーロッパ各国の1.5〜3倍あります。日本でも、店舗の大型化が進んでいましたが、近年では、高齢化対応、世帯人数の減少で、再び狭い商圏に、小規模の店舗を出す傾向になりつつあります。

 小売業と同様に、メーカーも沢山あり、従業員299人以下の中小メーカーは事業所数で約98%、出荷額で約78%を占めています。実際に日本の食生活を支えているのは、中小メーカーとも言えます。

 近年でも、政府の地域活性化政策の一端としての、農商工連携が盛んですが、地方のより小さいメーカーの商品を取り上げ、育成してゆくという、社会的な役割を、卸・問屋に期待されていると感じています。

 以上のような環境において、日本では、問屋業が発達し、取引の集約機能をはじめ、商品情報提供・商品開発機能、システム調整機能、得意先支援機能、金融機能を提供してきました。

2.流通業界の動向
 日本の食料品の市場規模は、小売ベースで約75兆円、卸売ベースで約39兆円、生産額ベースで約23兆円と言われています。この75兆円の市場に、総合商社、外国資本、更には投資ファンド等が、次々と参入してきています。食品卸売業をみますと、売上げ上位の企業は、国分以外は、ほとんど商社系列になっています。原料調達を手掛ける総合商社は、販路確保の為、卸の系列化を進める動きを続けてきました。

 昨年より、一般用医薬品がより幅広いチャネルで販売される様になりました。国家医療財政の困窮への一つの対応策としての政策、セルフメディケーションの推進の一端ですが、此れに対応して、卸売業も、医療用医薬品、一般用医薬品、食料品とカテゴリーを越えた対応を迫られており、提携する動きが盛んになってきています。

 もう一つの動きとして、海外市場への展開があります。成長著しい中国をはじめとする東アジア圏において、長年築き上げてきた日本の卸固有のマーチャンダイジング、物流、情報機能を活かしての事業展開も大手の卸では始まっています。食品流通業界も、少子高齢化により、長期的に国内マーケットが減少してゆく事が明らかであり、その中でどの様な成長戦略を描くかが大きな課題となっています。

教育者 新渡戸稲造

学校法人新渡戸文化学園
理事長 豊川 圭一 君

 “桁外れの国際人にして、とびっきりの愛国者”四年前に理事長を引き受けた「新渡戸文化学園」の初代校長新渡戸稲造はどんな人?と、聞かれた時の答えです。

 何をした人と、聞かれると簡単には答えられません。幾つもの学位と博士号を持つ“学者”であることは間違いありませんが、専門は何?と聞かれると、余りに分野が多く答えに詰まります。

 「武士道」をはじめ、多くの著書のある"文筆家“でもあります。台湾の李登輝前総統は、大著「武士道解題」の中で台湾の産業発展の功労者は新渡戸製糖局長だと感謝の言葉を述べています。

 “行政官”であった三年間で、砂糖を主要産業に育て上げ“実業家”としての才能をも示したのであります。

 「国際連盟」の初代事務局次長として、日本を代表し力を尽くしたのは、“外交官”新渡戸稲造でした。帰国後には貴族院議員に選ばれ、“政治家”にもなったのです。

 マルチ人間とも言うべき稲造ですが、その本質は間違いなく“教育者”であります。

 明治維新の六年前、南部藩の武士の家に生まれた稲造は、十歳の時上京し東京外国語学校で英語を学んだ後、アメリカからクラーク博士を招いて開校した「札幌農学校」の第二期生として入学しました。生涯の友となる内村鑑三、宮部金吾などと英語漬けの毎日を送り、完璧な英語を身に付け上京した稲造は、叔父の援助をうけてボルチモアの「ジョンズ・ホプキンス大学」に留学しました。

 私費留学の苦学生に周囲が示してくれた思いやりと援助が、生涯を通して「貧困青少年に対する教育」に取り組む決心を固めさせたのです。

 この時期、二つの大きな出会いがありました。一つは生涯の信仰となる“クエーカー"との出会いであり、今一つはフィラデルフィアの資産家の娘メァリー・エルキントンとの出会いです。周囲の反対を押し切ったこの国際結婚が、「女子教育の先駆者」新渡戸稲造を誕生させる事になりました。

 三十歳で帰国した稲造は、「札幌農学校」教授として指導者育成に力を尽くす一方、社会教育の普及に積極的に取り組みました。

 私費で設立した「遠友夜学校」は働く青少年に勉学の機会を与える新渡戸夫妻の「思い」の実現だったのです。

 神経衰弱を発症し転地療養したカリフォルニア州モントレーで、書き上げたのが「武士道」であります。この本を読んで“The Soul of Japan”を理解したルーズベルト大統領が、日露戦争終結の仲介を買って出たのは有名な話です。

 帰国して京都大学の教授になった稲造は、理想主義、人道主義的「植民政策」を講義しました。

 時の文部大臣牧野伸顕は「人格教育者」の評価を確立させた稲造に、エリート意識を鼻に掛けた学生を人格教育で矯正させようと「第一高等学校」の校長就任を依頼しました。牧野の思惑は見事に当たって、矢内原忠雄など多くの人材に人格的感化を与えたのです。

 その後「東京女子大」の初代学長に就任しましたが、翌年国際連盟事務局次長に就任したため名前だけの学長となってしまいました。

 七年後帰国した稲造は社会教育に重心を移します。

 社会的弱者だった女性に消費経済を教え自立を促す目的で設立された学校が、初代校長を引き受けた「女子経済専門学校」我が「新渡戸文化学園」の前身であります。

 昭和八年にカナダで客死するまで校長を務めた、先生の「思い」の一杯詰まった学園なのです。

 私どもの世代の教科書には新渡戸稲造は載っていませんでした。恥ずかしながら、本当に新渡戸稲造を知ったのは、福沢諭吉や夏目漱石と並んで五千円札の表紙を飾った時です。

 知れば知るほど偉大な文化人が、終戦前後十年間抹殺されていた理由は、最初に述べた“桁外れの国際人にして、飛びっきりの愛国者”に行き着きます。青い目の妻を持つ平和主義者は、西洋かぶれの軟弱文化人として戦時体制下の軍部に排斥されました。そして戦後のインテリ文化人からは、植民政策を講義し朝鮮併合や満州侵攻の正当性を講演した帝国主義者の手先として無視されたのです。

 この没後八十年の毀誉褒貶を新渡戸先生は、天国から苦笑しながらも平然と眺めておられる事でしょう。