卓話


「無言館」のこと

2014年12月10日(水)

一般財団法人 戦没画学生慰霊美術館
「無言館」館主
作家 窪島誠一郎氏


 私は信州上田の町はずれで小さな美術館を経営しています。「無言館」という不思議な名前で、国の助成金や税優遇を受けず、手弁当で開きました。

 先の太平洋戦争、日中戦争で数多くの兵隊が亡くなりました。その数は三百数十万人、また、近隣アジアの犠牲者の数は二千万人、三千万人ともいわれています。その中には、生きて帰ったら絵描きになりたい、もっと勉強して絵の道に進みたいという画学生も含まれていました。この美術館には、そんな若い画学生の絵が飾られているのです。

 22年前に3年8ケ月かけて、北は北海道江別市、南は九州鹿児島県種子島、87のご遺族を訪ねて絵をお借りしました。そのうちの何人かを紹介します。

 日高安典さん。鹿児島県種子島南端の宇宙センターがある南種村を故郷に持った彼は、昭和13年に東京美術学校(現・東京藝大)に入学し、17年に繰り上げ卒業し、18年に学徒出陣、26歳でフィリピンのルソン島で戦死しました。出征間際まで絵筆を取っていたのは最愛の恋人の絵でした。先年90歳で亡くなった弟の稔典さんが、その日の記憶をありありと語っていました。外では出征兵士を送る村中の声が響き、日の丸が打ち振られる。しかし、兄はなかなか自分の部屋から出てこない。恋人のデッサンを壁に貼り付け、油絵の具を付けながら、「あと5分、あと10分、この絵を描かせていてほしい」。追い立てられるように戦地に向かった兄の姿が忘れられませんと。

 私の小さな美術館のドアを押すと、向かって右の壁、ほの暗い灯りの中に、裸体像が飾られています。黒い髪を後ろに束ね、陶磁器を伏せたような乳房をちょっと上に反らせ、背筋をすっと伸ばしています。黄色のぼんやりとした曙の中にまるで菩薩か女神像が立っているような、とても素敵な美しい絵です。キャンバスの裏側には彼の最後の言葉が書かれています。「小生は必ず生きて帰ります。この絵を描くために」

 この絵の真向かい、左側の壁の一番手前には、静岡県浜松の出の中村萬平さん、昭和20年、戦争が終わりかけていることを知りながら、満州で27歳で玉砕死を遂げた画学生の絵が飾られています。学生結婚した霜子さんのお腹に赤ちゃんを宿したままの出征でした。霜子さんも産後の肥立ちが悪く、出産半月後に他界します。愛しい妻を看取ることなく、我が子の顔を見ることもなく、亡くなりました。戦場から送られてきたデッサンは、赤ちゃんの寝顔です。当時、軍事郵便は検閲を受け「愛しい人と会いたい」「故郷に帰りたい」という女々しい文章は家族に届きませんでしたが、この葉書は届きました。富士額で、まつげが可愛くカールした、くりくり坊主の、すやすやとした寝息がこちらまで届いてきそうな鉛筆のデッサンです。

 信じられない話があります。その一粒種の中村暁介さん、ついこの間まで某一流会社の専務さんを務められた方で、私と同じ昭和16年生まれ、はげちゃびんのお腹の出たいいオヤジさんになっているのですが、そのデッサンの赤ちゃんが70代になった暁介さんと瓜二つなのです。萬平さんのデッサンは決して上手ではありません。昭和18年、戦況の悪化を境に、それまで兵役免除特権を持っていた学生達が繰り上げ卒業になり、戦地に追い立てられました。萬平さんの東京美術学校の在学期間は1年にも及ばなかったのではないでしょうか。技術的に優れているとは思いませんが、上手下手を乗り越えた、祈りあるいは願い、残してきた我が子に対する愛情が込められているような気がします。飾られているのは、大きなお腹を抱えた裸婦像で、暗闇の中からじっとこちらを見つめています。息子の暁介さんが、「これはお腹の中に僕がいます。ですから母子像です」と胸を張るのです。

 独学で絵を勉強していた人の作品もあります。蜂谷清さん。昭和19年、レイテ島で20歳で亡くなりました。召集令状を受け取ってから出征までの10日間に、幼い頃に自分をおぶって子守歌を歌ってくれた祖母のナツさんを描きました。真っ赤な袢纏、白髪の一本一本を克明になぞった絵です。つい先年までナツさんは存命でした。絵を必死に描く彼の目を見ながらこう言ったそうです。「天皇陛下さんに叱られてもいいから、生きて帰っておいで。帰ってきて、ばあやんの絵の続きを描くんや」。既に彼は覚悟を決めていたのか、その絵にはっきりとしたサインを残して発ちました。無言館の108名の画学生、177点の絵の中でも人気の高い絵です。

 もう一人紹介しておきたい画学生がいます。もう10年ほど前に84歳で亡くなられましたが、北九州市小倉に色の白い可愛いおばあちゃん、佐久間静子さんがおられました。大恋愛の末に結ばれた佐久間修さんは、長崎の航空廠に勤労動員の最中、B29に狙撃され、29歳で命を落としました。修さんが長崎に発つ前の晩、「静子、モデルになってくれ」と熱心に頼むので、「私、気がすすまなかったんですが、モデルになったんですよ」とおっしゃっていました。22歳、新婚当時のぴかぴかのヌードデッサンと、着物を着てちょっとうつむき加減にしている絵。その小さな肖像画2つを残しました。

 私は静子さんにはちょっと苦労させられました。絵を無言館に預けるというので小倉まで出かけると、「ああ言ったけれど、自分が死んだ時、修さんの絵を棺の中に入れてほしい。だから、渡すわけにはいかない」。上田まで戻ると夜中になって電話が鳴り、「よくよく考えたけれど、やはり渡したほうがいいような気がする。自分も老い先がないから」。そして、また小倉まで出かけると、「また気が変わった」と。「無言館ができたら、そこで修さんの絵と再会したい」という彼女の願いでしたが、美術館が建設に入る頃から入退院を繰り返し、夢を果たすことなく亡くなりました。

 無言館は、新聞・テレビ等に取り上げられることがあります。そこには必ず、平和を大事にしよう、あの不条理な時代をもう二度と繰り返してはいけないという、「反戦平和」の言葉が踊ります。彼らの絵の前に立てば、今あるこの平和の尊さを抱き直さなければいけないという思いになるのは当然です。しかし、それだけを伝えている作品ではないことにも気づいていただきたい。彼らは平和運動のために絵を描いたのではなく、愛する人を描いて戦地に発った。妻を、恋人を、敬愛していた父や母を、かわいがっていた妹を描いたのです。そこにある濃密な人間関係、絆、すぐ傍らにいる人の愛情に対する感謝、そして、その愛に支えられて生きた自らの青春、自らの生の証を描いたのです。

 今私達は、親が子供を殺し、子が親を殺す時代に生きています。彼らが告発しているのは戦争だけではなく、戦後70年近く、私達がどのような生き方をし、どれほどかけがえのないものを失ってきたか、そして、明日からどう生きるべきか、そのことも問うている気がするのです。

 最後に、佐賀県鳥栖市立鳥栖小学校にあった一台のピアノに秘められた物語について話します。昭和20年5月、この学校の玄関に特攻服を着た2人の少年兵が立ちました。海野光彦さん19歳と風間森介さん21歳、音楽の吉岡公子先生23歳が応対しました。2人は、「私達は明日鹿児島の知覧から、愛する祖国を守るため、神風特攻隊の一員として沖縄の空に飛び立ちます。私達は、東京音楽学校のピアノ科の卒業なんです。飛び立つ前に思う存分ピアノを弾いてみたい。小倉の連隊から汽車に乗って鹿児島に行く途中、鳥栖小学校にとてもすばらしいピアノがあると教えてもらいました。矢も盾もたまらなくなって途中下車し、3キロを走ってきたんです。ピアノを弾かせて下さい」。音楽室に招き入れると、2人は1時間半にわたって狂ったように取りすがるようにベートーベンの月光を弾きました。「思い残すことはありません。ありがとうございました」と、手を振って別れていったそうです。

 今から20数年前、佐賀タイムスというミニコミ誌に、その古いピアノが処分されそうになった際に老音楽教師が初めて特攻兵の話を語り、その話が広がりピアノが保存されることになったニュースが載りました。佐賀タイムスは2人の追跡調査をします。海野さんはピアノを弾いて4日後、沖縄の空で19歳の命を閉じていた。しかし、風間さんの名前は戦没者名簿に見当たらない。調査は頓挫したまま、きれいにされたピアノのお披露目の日がやってきた時、そのピアノの後方に風間さんが立っていました。風間さんは告白します。「あの時、海野君と同じように沖縄の空に飛び立った。しかし、自分の飛行機だけが屋久島上空でエンジン不調となり知覧に引き返して修理せねばならなかった。待機している間に終戦になり、海野君に申し訳なく、生き残った自分が恥ずかしく、このピアノのこともすべて忘れようと思っていた。しかし、ピアノが保存されることを聞いてたまらなくなってやって来ました。海野君の分も弾かせて下さい」。素晴らしい演奏だったそうです。

 この話をどう受け取られるでしょうか。私は、人間の命とは自分の命が得た感動を見知らぬ他者の命に伝える義務、責任があると思うのです。ことによると、私達は感動を他者に伝えるネックレスの一つひとつの真珠を受け持っているのかもしれない。自分一人くらいないがしろにしてもかまわないと思ったら、感動のネックレスはバラバラ、感動のバケツリレーは次の時代まで伝わらない。人間の命は、他者の命に向かって何か感動を伝えるためにある。この話を思い出すたびに、そう考えます。

 私は、高校卒業後、高度経済成長期に小さな水商売を開業して、絵描きになりたいと思いながら挫折し、絵描きになれなくても好きな絵を集められるんじゃないかとこの道に進みました。

 美術館は、冬の間は火曜日は休みですが、一昨日も一昨昨日も入館者ゼロの日が続いています。峠一つ向こうには別所温泉もあります。木漏れ日の中にひっそりと立っている美術館です。ふと思い出すことがあったら、足を運んでいただければ幸せです。

※戦没画学生慰霊美術館「無言館」
〒386-1213
長野県上田市古安曽字山王山3462
TEL0268-37-1650
休館日:4月〜11月(無休)
    12月〜3月(火曜定休)
鑑賞料:1,000円
電 車:JR長野新幹線/しなの鉄道「上田駅」にて乗換。
    上田電鉄別所線「塩田町駅」から徒歩30分
 車 :上信越道 上田菅平ICより35分

       ※2014年12月10日(水)の卓話をクラブ会報委員が纏めたものです。